昨日は、小島豊美さんと両角康彦さんが主催する「よろず長屋 まったりトーク」で、神保町のきっさこで、松竹映画について再評価するトークをした。
私が、高校、大学の頃、一番好きだったのは日活で、東宝、東映、大映はよく見ていたが、松竹は一番バカにしていた会社だった。
だが、映画史を知るようになると松竹は、1920年の松竹キネマ創立時には、非常に新しい考え方を持っていた会社だった。
その1は、女優を使うことで、女形は使わないようにすることだった。当時は、衣笠貞之助、立花貞郎のような女形女優がいて人気だったが、それはやめて女性を使うことにして、俳優養成所を新劇の小山内薫を招いて設立までした。2は、現代劇を作ることで、旧来のチャンバラや歌舞伎劇は作らないとのことだった。
だが、現実は上手くいかず、京都での林長二郎(長谷川一夫)の時代劇の『稚児の剣法』や『雪之丞変化』などがヒットして人気になった。「ミーハー族」も、松竹の大阪が、「林長二郎を見て、みつ豆を食べる若い女」から作った宣伝文句だそうだ。
松竹映画を考えるについて、まず世界の小津の小津安二郎の戦前のサイレント映画、『非常線の女』を見た。これは昼間は商事会社の英文タイピスト田中絹代が実は、ギャングの岡譲二の情婦であるという凄い映画なのだ。ここには、ダンスホールのフロリダも出てくる貴重な作品である。最後、会社社長の息子で専務の男から現金をピストルで脅して強奪し逃亡する。逃げた場所は、横浜山手のカソリック教会の前で撮影されていて、そこで田中絹代は、岡譲二をピストルで撃ち、怪我させて互いに自首して最初からやり直そうという。これは私見では、前年の1932年に蒲田撮影所の隣の大森で起きた、共産党ギャング事件へのメッセージではないかと思う。『生まれてはみたけれど』に見られるように、当時の日本の社会に対して批判的だった小津の、左翼へのメッセージ、「もう一度やり直せよ」ではないかと思うのだ。
松竹からは、島津保二郎、成瀬巳喜男、豊田四郎など東宝に移籍した監督、さらに戦後の日活の製作再開での、中平康、斎藤武市、鈴木清順らの大船撮影所の助監督の移籍に見られるように、多くの監督を松竹は育てている。
私は、渋谷実、豊田四郎らの「風俗映画」が好きで、この日は豊田の監督、京マチ子、桑野みゆき、佐田啓二出演の『甘い汗』を見た。
これは長年、クラブで働いて一家を支える京マチ子の話で、いつもは悪役の山茶花究が善人で、悪役でヤクザの佐田啓二に騙され、その片棒を京マチ子も手伝わされる皮肉な話なのだ。
撮影場所としては、下北沢の闇市、上野の博物館付近、井の頭沿線の駅での佐田啓二と京マチ子の再会の他、船橋ヘルスセンターなどが出てくる大変に興味深い作品なのだ。
中で、京マチ子と池内淳子が明け方に歩く場所がよくわからず見て貰った。
浅草か足立区あたりではないかとのことだったが、特定できなかった。
これは美術が伊藤喜朔なので、非常に凝ったリアリズムのセットが凄い。これを作った東京映画は、東宝の子会社だが、一応独立なので、5社協定外であり、他社の俳優を出すシステムとして使用された。『駅前シリーズ』も東京映画だが、これは森繁久弥、フランキー堺と共に、松竹の伴淳三郎を出すための工夫だった。
ラストは、1962年の日活の『上を向いて歩こう』で、吉永小百合、高橋英樹、浜田光夫、渡辺とも子、ダニー飯田とパラダイスキング、平田大三郎らの青春映画で、国立競技場をバックのラストシーンのエネルギーが実に素晴らしかった。