大杉漣が急死されて、テレビでは特集放映が盛んだが、映画考古学者で新東宝研究家の下村健さんのところに、某週刊誌のWEBサイトから
「新東宝に出ていた大杉さんについてお聞きしたい」との問合せがあったそうだ。
これには本当に笑ってしまった。
大蔵貢で有名な新東宝とは別に、新東宝という会社があり、現存しているからだ。
元の新東宝は、1961年に倒産した後、配給会社の大宝を経て、1962年の大宝の倒産以後は、新たに作られた国際放映に作品の権利は移動し、元の新東宝という会社は存在していないのである。
大蔵貢は、自分が関係していたいくつかの映画会社を整理して大蔵映画を作り、銀座の一番館ビルに位置して今も製作、配給を行っている。一時期、OPチェーンというピンク映画のチェーンがあり、この名を知ってる人も多いだろう。
また、世田谷にあるオークラランドは、元は東京発声映画というトーキーの製作会社で、戦時中に東宝に統合されて第三撮影所になった。
その後、東宝争議後に新東宝ができると、新東宝第二撮影所になり、新東宝の大蔵貢社長時代に富士映画撮影所になったが、これはかなり経理上問題のある資産操作だった。
その後、大蔵映画撮影所になり、ピンク映画全盛時代には、多くの作品のスタジオに使用されたそうだ。
だが、ピンク映画が1971年の日活ロマンポルノ等の出現等でだめになるとすぐに閉鎖し、ボーリング場とテニスコートにした。この時、大蔵映画で照明の仕事をしていた方は、ボーリング場の電気係に配転されたそうで、大蔵氏は優れた人情のある経営者ともいえるだろう。
ただ、現在の大蔵映画の主要事業は不動産事業で、かつて所有していた映画館をビル等に建て替え、その賃料で優良な経営を行っているとのことだ。
だが、今年は「大蔵映画70年」とのことで(70年というのはどこから数えるのか諸説あり)、大作を作りたいとのことで、ぜひ期待したいところである。
『昭和天皇と太平洋戦争と日本国憲法』というのはどうだろうか。
では、今ある新東宝とは何かといえば、旧新東宝が倒産した後、関西の旧新東宝の関係者によって作られたピンク映画の配給会社であり、1960年代中盤から多数のピンク映画を配給してきた。
だから、大杉漣が出たのは、この新設の新東宝の方だが、製作は様々な会社だったと思う。
大杉漣の死が意外なところで波紋を呼んでいるものだと思った。