左足の付け根に発疹が出て、腰や筋肉に張りも出てきたのは、6日頃だった。これは、1月1日にバス旅行に行き、一日座席に押し付けられていて、さらに少し歩いたことの性だと思っていた。
でも、少し長引くので、近所の医者に行く。初めてだったが、なんと受付に3月30日で閉院すると書いてある。
「こりゃだめだ」と思い、中も相当に汚れていてお世辞にも綺麗とは言えない室内だった。
だが、先生は「こりゃ帯状疱疹だな、いろいろな出方があるので、典型的ではないが帯状疱疹なので、薬を飲んでくれ」と言われ、すぐ近くの薬局で処方薬を貰うが、1週間分で6500円と相当に高い。
まあ、仕方のないことだと思い、寝るときには腰が痛いので、ロキソニンで痛みを抑えて過ごしている。
遠くに行くのは嫌なので、黄金町のシネマ・ジャックで『永遠のジャンゴ』を見る。
入口には、梶原俊幸君もいたので、「今年もよろしく」と新年の挨拶を交わす。
ジャンゴ・ラインハルトは、1960年代からチャーリー・クリスチャンと並び、伝説のジャズ・ギタリストだった。
言うまでもなく、ギターは、イギリスやアイルランドの楽器ではなく、アラブ、スペイン系の楽器である。
だから、カントリーやフォークでは、当初はギターはなく、フィドル、つまりバイオリンがギターの代わりをしていた。
幕末にペリーが来航し、その時彼らは、黒奴踊り、ミンストレル・ショーを日本人に横浜で見せた。
その時の浮世絵について、音楽学者で横浜市の助役も務めた方が、その楽器編成について、
「ギター、バンジョー・・・」と本で書いていたのには驚いた。それはギターではなく、バイオリンを横にしてリズム楽器として使用していたのである。
クラシックの学者は、ギターの由来も知らないのかと驚愕したものだ。
そのようにギターは、スペイン系の楽器で、アメリカのポリュラー音楽に取り入れられたのは、非常に遅くルイジアナなどのスペイン、フランス地域から北上した。
そして、東部のアパラチア山脈の石炭の鉱山地帯で下層の白人や黒人たちと交流し、カントリーやブルースになったのである。
だから、アメリカではギター音楽の発展は遅れていたので、ジプシー音楽だったジャンゴなどからも多大な影響をジャズは受けたのである。
ナチス政権下のパリでのジャンゴから始まり、国境越え等が描かれるが、「音楽家と弾圧政権」という図式で、やや退屈で寝てしまった。
最後、解放後のパリで、ジャンゴは虐殺されたジプシーらを追悼して「レクイエム」を指揮する。