最近、テレビを見ていると、芸がないとか、下品とかいう以前に、顔自体が醜い連中がテレビに出ている。
なんとかジュニア、小藪なんとか、松本というのもよく見ると醜い顔であり、ひげ面は不快そのものである。
私の知合いは、春日なんとかの顔が嫌いだと言っていたが、まあそうだろう。
その点、明石家さんまは、なんといっても芸があり、いやらしさは感じられない。
どうしてこのように醜い顔の連中がテレビ画面上に出てくるようになったのだろうか。
さて、私は佐野周二という役者が好きである。
佐野は、言うまでもなく戦前は、上原謙、佐分利信との松竹三羽烏だったが、戦後はフリーの立場で多彩な作品に出ている。
東映の内田吐夢作品に、近松門左衛門の浄瑠璃を原作とした『暴れん坊街道』がある。
ここで佐野は、零落する武士の悲劇を演じるが、中でお尻丸出しの褌の人足姿を見せる。内田監督は、佐野を「偉い」といったそうだ。
また、川島雄三監督で、池内淳子の主演の『花影』では、青山二郎をモデルとした、天才的骨董評論家だが実は金にいつも不自由していて、寸借詐欺的な男を演じる。よくも、かつての二枚目が、こんなひどい役を演じるのかと思うが、そこに少しの卑しさも感じられない。
この違いは、なんに基づくのだろうか。
私の考えでは、戦前までの映画界は、内部はともかく社会的には、きわめて評価の低い社会だった。
だからこそ、戦前の映画人は、「われわれはきちんとしているのだ」との誇りがあり、自己を律していたと思う。
しかし、今はテレビ界は日本社会の頂点にいるようだ。
だから、そこに出ている我々は偉いのだと錯覚しているらしい。
そのことがよく分かったのは、例の不倫問題で、宮迫なんとかが不倫現場を撮られた時の横柄な態度である。
そこには傲慢不遜しか感じられなかった。
だが、平家物語ではないが、驕るなんとかは久しからずである。