一昨日、横浜市中央図書館で「映画『あにいもうと』の昭和史」を行い、昭和期に11年、28年、51年と3回作られた作品のハイライトを上映しつつ、作品と時代について話をさせていただいた。
それぞれの特徴は、最初のPCL版は、監督が元プロレタリア映画同盟のメンバーだった木村荘十二の意向で、川筋者の肉体労働と当時の階級的格差を描いていた。
冒頭に多摩川で砂籠によって砂防工事をする男たちが出てくるが、頭領の小杉義男以外は、全員お尻丸出しの裸なのだ。労働イコール肉体労働だとの木村の意思が感じられた。
さらに、娘おもんを妊娠させて捨てた小畑が来ると、小杉は怒るが、ここには多分金持ちであろう小畑への下層民である小杉の非常に激しい怒りが表現されていた。
おもんは、竹久千恵子で、小畑は大川平八郎と、いずれも米国に行ったことのある俳優であることが興味深く、こうした行いをする者は、本来日本的ではないということがある。
戦後の成瀬己喜男監督版は、もん・京マチ子の妹のさん・久我美子がクローズアップされているが、それは脚本の水木洋子の意思である。
つまり、彼女は製麺所の息子で養子の堀雄二と恋仲だが、父の潮万太郎も家付き娘の本間文子に頭が上がらず、堀と久我のことを認めない。
水木洋子の脚本は大変に優れたものがほとんどだが、冷静に考えてみると、彼女の作品の男は、『浮雲』の森雅之を典型に、情けなく、不甲斐ない男がばかりである。
ここでは、もんの兄の伊之は、森雅之で、本来彼の役柄ではないと思うが、非常にうまく演じており、京マチ子との立ち回りのシーンも凄い。
ラストには、京マチ子と久我美子がきちんと生きていくようにとの水木洋子の考えが感じられた。
さて、一番評判が良かったのが、最後に作られた今井正監督、草刈正雄、秋吉久美子主演のものであった。
秋吉の自然な演技は、前作とは比較にならず、竹久や京マチ子らの演技には、どこかでお芝居をしているという臭さが見えた。
ラストは、東京へ戻る秋吉久美子とさんの池上季実子をダンプ運転手の草刈りが拾って乗せ、
「また、戻って来いよ。遠くに行くなよ」と声をかけ、たばこを吸う秋吉が涙をこらえるもので、ここは名場面だと皆感じたようだ。
今井正というと、『また逢う日まで』や『ここに泉あり』等が取り上げられるが、それらよりも、この『あにいもうと』や『夜の鼓』の方が良いと私は思う。
そして、先日ヨコハマ映画祭実行委員会前代表の鈴村さんにお会いした時に、鈴村さんもおっしゃっていたが、今井正は、もっと評価されてよい監督だと思う。
演出力という点では、同じ東宝出身の黒澤明と同等のものがあったと私は評価している。