昨日、私は戦後の昭和天皇のご退位について書いた。昭和天皇の退位については、1945年頃からの近衛文麿、あるいは木戸幸一の1952年の占領終了時でのものがあった。
だが、言うまでもなく、どちらの時期も、退位はしなかった。
なぜだろうか。
理由は、国内、国外的に理由があった。国内的には、皇太子(現天皇陛下)は、まだ19歳で、結婚前でもあったので、譲位は難しかっただろう。
国外的には、朝鮮戦争の問題である。1952年当時は、まだ北朝鮮側が攻勢を続けていた時代で、彼らが韓国はおろか日本にまで押し寄せてくる危険があったからだ。
その証拠に、昭和天皇は、吉田茂首相や外務省を飛び越えて、直接アメリカに沖縄への駐留を要請している。
このことは以下のように、すでに書いた。
この本 『昭和天皇・マッカーサー会見記』(豊下楢彦)を読もう思ったのは、映画『終戦のエンペラー』を見たからである。
この映画がいかにいい加減かについては、元教員の尾形修一さんが、そのブログに詳細に書かれているので、是非お読みただきたい。
「終戦のエンペラー」と史実① 2013年10月01日 その趣旨は、例の有名な天皇とマッカーサーの最初の会見での昭和天皇のお言葉にマッカーサーが感動したというエピソードは事実ではないと言うことだ。これは、随分前に五百旗頭先生が『マッカーサーの2000日で』明らかにしていたことである。
私は、歴史については素人だが、この本で豊下先生が提起された、敗戦直後から新憲法制定、さらに朝鮮戦争と米軍の占領終了の時期に、昭和天皇が行った数々の「政治的行為」については、多分非常に衝撃的だったと思う。
当初、この論文を出されたときは、未公開の会見記録も多く、豊下説は推測に過ぎないとして多くの批判や疑問が投げかけられたそうだ。
だが、その後様々な文書が公開されて、豊下先生の「推測」は、事実だったことがあきらかになった。
この本に収録された論文の趣旨が、「多分、天皇は、そんなことをしていないだろう」という歴史学者の予測を全て裏切るものだったからである。
その最たるものの一つが、昭和天皇が、東京裁判の結果に最大限の賛意と謝辞をマッカーサーに表明したというもので、これ一つでも所謂「東京裁判史観」は崩壊するに違いない。
また、新憲法に対して、マッカーサーが「東洋のスイス」にしようと非武装を主張、吉田茂や外務省が有期駐留だったのに対し、実質的な無期限駐留を強調したこと、特に米軍の沖縄駐留の言質を与えたことは、戦後史を考える上で、非常に大きな意味を持っている。
つまり、東京裁判、新憲法制定の過程で、昭和天皇は、時には首相の吉田茂の頭越しに外交活動を行い、政治的役割を果たすことで、自分の地位を保ったということになる。
別の角度から考えて見れば、天皇家という旧家が、敗戦から新憲法制定という、時代の急激な変化の中で、どのように自らの財産を守ったか、ということになるだろう。
その財産とは、三種の神器であり、昭和天皇自身のお体である。
朝鮮戦争時の天皇の米軍撤退への危惧は、まさに北朝鮮、中国、さらに日本国内の共産党らによって、天皇自身の生命も危機にあったからである。
敗戦直後、日本共産党は、天皇の裁判、処刑も主張していたのだから。
映画『終戦のエンペラー』でも出てくる昭和天皇が、マッカーサーとの最初の会見で言ったという「日本の戦時中の行為のすべての責任を取る」と言うのは、もちろん歴史的には事実ではない。
ただ、昭和天皇のある種の誠実さ、真面目さにマッカーサーが感動したのは事実だと思う。
特に、敗戦と米軍駐留に対して、昭和天皇が、東京を動かず、他国へも亡命しなかったのは、ある種意外な感じを与えたのではないかと思う。
なぜなら、第二次大戦中、欧洲各国にナチスドイツが侵略してきた時、各国の国王は、皆国外に亡命してしまったのだから。
もっとも、当時の日本で、亡命できる国といえば中立国のタイくらいしかなく、制海権、制空権もすべて失われていたので、行きようもなかったのだが。
以上のとおり、昭和天皇は、譲位されず天寿を全うされたわけだが、それが良いことであったか、どうかは十分に考えるべき問題だと思う。