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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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吉野文六氏、死去

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3月末に、元外務省審議官だった吉野文六氏が亡くなられた。96歳。

吉野文六氏には、1990年頃に事務所にお伺いしてお話をお聞きしたとこがある。

 東京九段のトヨタ本社の中で、当時はトヨタの研究団体である国際問題研究所の代表を務められていた。

内容は、横浜、特にパシフィコ横浜でのサミットの開催で、高秀秀信横浜市長から、「開催の可能性についてヒアリングして来い」とのことで出かけたのである。

多分、高秀氏と吉野氏とは特に親密な関係はなかったと思うが、前市長の細郷道一横浜市長とはお知り合いだったので、横浜国際機関協力会の代表にご就任いただいていたのだ。その頃に、そこにいたM課長らと一緒に行ったのである。

吉野氏のご意見は、「もちろん、パシフィコ横浜で開催可能」とのことだった。

それは当然で、当時のサミットは8か国なので、外相などを入れてもせいぜい30人くらいの国際会議だからだ。

日本では行われていないが、海外では地方の小さな別荘などでも開催されている。

こと時は、1994年の日本開催のサミットだったのだが、これは小渕恵三首相の強い意志によって沖縄開催になる。

これは画期的なことだったが、その後「外務省の不祥事」発覚のきっかけになったのは、大変に皮肉なことだった。

それは、サミット開催後、少しも沖縄に金が落ちなかったのはどうしたわけだ、との疑問が沖縄から出された。

そして、サミットの周辺には特定の業者、人物、さらに外務省内部の特定に人間との癒着が暴かれたのである。

要は、日本がいかに国際化していないかの証拠で、一部の人たちによって国際的な事業は行われていたのである。

さて、その後の2009年に吉野文六氏は西山太吉元毎日新聞記者の裁判で、沖縄返還の際の日米間の「密約」について、その存在を証言された。

もとともすでにアメリカの公文書公開によって「密約」は証明されていたが、実際に外務省の上級職員としての証言は、非常に勇気のある立派な行為だったと思う。

ご冥福をお祈りしたい。

 

                              


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