1989年10月に、中国の上海市で、「1989横浜工業博覧会」が開催され、横浜市の代表団の一人として、私も鈴木喜一議長に随行し、約2週間中国に行った。初めての海外旅行で、当時は東京に住んでいたので、有楽町のビルにあったセンターで最初のパスポートを取った。
当時は、まだ成田空港の警備は厳戒体制で、全団員が飛行の前日に成田空港内のホテルで一泊して、翌朝に上海に向かった。
飛行場では、例によって熱烈大歓迎で、「これか・・・」と思ったものだ。
翌日から公式行事がいろいろとあったが、約1週間で無事終了して、中国各地への視察に移った。
この頃は、文革は終わっていたが、まだ毛沢東は正しいという時代で、華国鋒時代と言われる過渡期で、まだマルクス、レーニンにならびスターリンの肖像が掲げられていた。
ただ、上海市の幹部の人の話を聞くと、すべて「文革派の悪業」だったが、その頃、旧幹部は地方に下放されていたのだから仕方ないことだろう。
さて、広東に行くと高倉健の『君よ、憤怒の河を渡れ』が大体的に公開されていて、中野良子は、この頃から大人気になっていくのだ。他には、イタリア製のアクション映画が公開されていたが、これは安いからとのことだった。
そして、桂林に行くと、飛行場には旧ソ連製の戦闘機が止まっていて、南のベトナムに向かって発進できるような姿勢になっていた。まだ、中越紛争が完全に終了してはいなかったのだ。
後に、桂林に行き、当然川下りをしたが、そこ頃は相当に水が濁っていたが、この頃はまだ非常にきれいだった。
最後の夜、桂林市は、われわれに革命的日中友好歌劇を見せてくれた。
題名は憶えていないが、日中友好がテーマで、中国人の医学生が、戦前に日本に来て、日本女性と恋仲になり、一人の少女が生まれる。
戦後、医師となり、中国に戻ってきて活動するが、文革になる。
知識人で日本人と結婚しているのは、反動分子だとのことで、紅衛兵に捕まり投獄される。
そのとき、娘が父と日本で旧知だった周恩来首相に電話して、父は解放されてめでたしめでたしとなる。
実に適当なミュージカルだが、このメロディーが、八代亜紀の『おんな港町』にそっくりなのだ。
なんど聞いても、「女、みなと町・・・」なのだ。
それほどに八代亜紀の曲は、当時中国でも愛好されていたのだ。
日中友好にも貢献された女性歌手のご冥福を祈りたい。