山本功児は、日本プロ野球史上でもっとも不運だった選手の一人だろうと思う。なにしろ全盛期の巨人の王貞治選手の控えだったのだから。
プロ入りまで[編集] 実家が当時の南海ホークスの練習場であった中百舌鳥球場と選手寮(秀鷹寮)の近くでパン・菓子屋を営んでおり[3][4]、幼少期は南海選手から可愛がられていたと、皆川睦雄が野球中継解説時に語っている。また、実父は当時の監督であった鶴岡一人と懇意にしており、二軍選手はもちろんのこと、上記の皆川以外にも杉浦忠、穴吹義雄、野村克也らの主力選手もからもよく声をかけられていて、「功児、合宿所に遊びに来い」と度々誘いを受け、選手寮の食堂で選手たちと食事をともにするだけでなく、帰る前に湯船に浸かっていくこともあったという。その中でも特に可愛がっていたのは穴吹で、堺市の浜寺公園にあった自宅にも、ちょくちょく招いてもらっていた[5]。
三田学園では1年生からレギュラーとなる。エース吉岡邦広を擁し、五番打者、一塁手として1967年夏の兵庫大会決勝に進んだが報徳学園に敗れ、準優勝[6]。3年次に1969年春の第41回選抜大会に出場。準々決勝に進んだが堀越高の但田裕介(阪神)に抑えられ、1-2で惜敗し、ベスト8[7]。同年夏は兵庫大会準々決勝で滝川高に敗れ、ベスト8[6]。1学年後輩に淡口憲治(元巨人・近鉄)、2学年後輩に羽田耕一(元近鉄)がいた。1969年度ドラフト会議にて同年のシーズンオフに監督に就任した野村克也から度々誘いを受け、地元の球団の南海ホークスから3位指名(1位は佐藤道郎、2位は門田博光)を受けるも拒否し、法政大学経営学部に進学。理由は法政大学に進学した兄がプロ入りできなかったことで、「法政の野球部はそんなにレベルが低いところなのか」を試す為であった。
東京六大学野球リーグでは横山晴久ら強力投手陣を擁し、2年生までに3度の優勝を経験するがその後は優勝に届かなかった。リーグ通算86試合出場、282打数79安打、打率.280、3本塁打、44打点。ベストナイン(一塁手)2回。1972年、1973年には日米大学野球選手権大会日本代表に選出されている。大学同期に投手の前村泰正、三塁手の佐々木幸治らがいる。大学卒業後は本田技研鈴鹿に入社。1974年には西濃運輸、1975年には新日鉄名古屋の補強選手として都市対抗野球大会に連続出場。1974年の第1回社会人野球日本選手権大会にも出場し、本塁打を放った。同年の社会人野球キューバ遠征に参加、1975年には第2回インターコンチネンタルカップ日本代表に選出されている。同年のドラフト会議にて読売ジャイアンツから5位指名を受け、入団。
現役時代[編集]1976年から一軍で起用されるが、本来の守備位置である一塁手には王貞治がおり、外野手も兼ねて出場機会の確保を目指す。1977年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは第4戦の7回に代打として起用され、山田久志から自身のシリーズ初安打を放つ。1979年は主に右翼手として51試合に先発出場、打率.291の好成績を残した。同年のシーズンオフ、長嶋茂雄監督による「地獄の伊東キャンプ」にも参加する。1980年は7試合に四番打者として起用された。同年オフに王貞治が引退。1981年には中畑清と一塁手の定位置を争う[8]。守備には定評があったが打撃面での不調もありレギュラーは奪えなかった。同年8月26日の中日ドラゴンズ戦では代打として出場、星野仙一を相手にショートフライに打ち取られると思いきや、中日の遊撃手の宇野勝がまさかの失策を犯してしまい、山本もダイヤモンドを一周して同点となる本塁を目指したが本塁で刺殺された[9]。詳細は「宇野ヘディング事件」を参照1982年4月20日の中日戦では星野からサヨナラヒットを打った。同年は主に左翼手として70試合に先発を果たすが、打率は低迷が続く。1984年は、三宅宗源との交換トレードでロッテオリオンズへ移籍。同年は開幕から一塁手、五番打者に定着し、初めて規定打席に到達、打率.301(9位)を記録している。1985年も中心打者として活躍、打率.293(14位)の好成績を挙げ、1984年から2年連続でゴールデングラブ賞を受賞。
1986年は開幕から落合博満が一塁手に回り、左翼手として起用される。6月には一塁手に戻るが、9月に故障もあって定位置を斉藤巧に譲った。この結果出場機会が大きく減少する。
1987年は序盤に故障欠場するが、その後は中日へ移籍した落合博満に代わり、23試合に四番打者として起用される。規定打席には届かなかったが、打率.319を記録した。
1988年は愛甲猛が一塁手に定着、コーチ兼任となり同年限りで現役を引退。
引退後[編集]1989年から1993年までの5年間、ロッテ一軍打撃コーチを務めた。
1994年は二軍打撃コーチに回る。
1995年から1996年までの2年間、再び一軍打撃コーチを務めた。
1999年から2003年までの5年間、千葉ロッテマリーンズの監督となるが、一度もAクラスには浮上できず、2003年に退団、成績不振による事実上の解任だった[10]。監督辞任後は一家でハワイに移住する予定であった。
2003年シーズンオフに就任した巨人の堀内恒夫監督からの要請があったため、2004年二軍ヘッド兼打撃コーチとして古巣に復帰。
2005年からは一軍ヘッド兼打撃コーチに就任するがチームの不振で堀内監督は辞任し、山本も同年のシーズン限りで退団。ここで初めて現場から離れたこととなり、復帰もなかった。
2006年から2007年まではラジオ日本「ジャイアンツナイター」解説者・スポーツ報知評論家を務めた。
経歴は以上の通りで、「宇野のヘディング事件」の打者だったことでのみ、歴史に残ることになるのだろうか。