高校野球全国大会で、慶応が日大土浦に勝ち、明後日の決勝戦に出ることになった。
なんでも105年ぶりとのことだが、その時、慶応はどこに地域の代表として出たのだろうか。
それは、東京代表だったのだ。
当時は、慶応高校(普通部)は、東京の三田にあったのである。
その後、1949年に横浜の日吉台が米軍から返還されたので、ここに高校と共に大学の1,2年の校舎も作られたのだ。
この日吉台は、言うまでもなく戦時中は、日本帝国海軍の連合艦隊司令部がおかれていた。
なぜ、こんなつまらないことを私が知っているかと言えば、1963年に都立小山台高校に入った時、
教師が、「わが校は勉学だけではない、1948年には高校野球東京都予選では決勝まで行き、慶応高校に負けて甲子園に行けなかったように文武両道だ」とえばっていたからだ。
都立日比谷高校への無意味な強がりだったと思うのだが、当時小山台の野球部(正確には運動部野球班)が強かったことは事実である。
当時は名遊撃手でフランス文学者の海老坂武さんがいて、東大でもショートで活躍されたのだそうだ。
また、海老坂氏、先日亡くなれた大江健三郎と東大で同級で、大江君は快活で温厚で人気のある青年だったそうだ。
いずれにしても、一応は現在私も住んでいる横浜市港北区日吉の慶応高校を応援することにしよう。