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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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ケイヒンの荒業 本牧ふ頭基部

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鳥浜の埋め立て地をめぐるケイヒンのもろもろについて書いたので、他のことも書いておく。

ケイヒンで一番有名なのは、東京港のふ頭公団のライナーバースを作る時、ケイヒンはオプション契約をしていたのに、途中で勝手に降りた事件である。ここでは、多額の違約金を東京都に取られた。

それをある人から聞いたとき、私は、東京都港湾局は偉いなと思ったものだ。

その点、横浜は地元企業でもあるので、すべてをドライにはできなかったようだ。

さて、もう一つ横浜港でも、ケイヒン絡みの案件があった。

それは、本牧Aふ頭基部の、当時は住友倉庫が持っていた1000平米くらいの土地だが、ここも実は1950年代からケイヒンが所有していたのだ。

その先というか、そこには前歴があり、戦前に心丸ハッチボードという岐阜県から出てきた会社が、船の甲板を合板で作る技術を持っているので、小型船舶を作る企業と工場を本牧の岸壁に作る事業を始めた。

それは、株式会社として作られて、横浜の有力企業も出資してはじめられた事業だったそうだ。

なにかの機会に、市会議長の松村千賀雄先生に話したところ、

「俺の親父も出したんだよ」と言っておられた。

この心丸ハッチは、大した事業をしない内に、戦争になり、彼らが持っていた土地は、戦後は有名無実化していたようだ。

だが、「蛇の道はなんとらや」で、ケイヒンがこの土地に目を付けた。

そして、土地を分割して、いくつかに分け、さらにそこに同名の会社をケイヒンは設立して、その株券を操作して、最後は、全部ケイヒンのものにしてしまったのだ。

その後、そこは住友倉庫のものになり、ベイブリッジができたときに、必要部分は横浜港ふ頭公団に売局されて、今日に至っている。

           

もちろん、市内企業も株券を持っていたので、それは安い価格で買い取ったようだ。

それについては、松村さんも、

「親父も騙されたようなもので、やすやすと取られてしまったんだ」

と言っていた。

ただ、最後に松村さんは言っていた。

「ああいう(つまり在日の人)人や企業が上手い汁を吸う時代は終わったね」と言っていた。

それは、横浜港が、1954年までは米軍管理下にあったので、当時は日本人よりも優遇された時代があったのだと私は推測したが、多分そうだろうと思う。

 


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