中区根岸鳳町の土地は、もともとは大日本航空の土地だったと書いた。
では、千鳥町・豊浦町は、どうだったかと言えば、これは元はなんと住宅地だったのだ。
それを知ったのは、やはり港湾局の管財係長をやっているときだった。
19876年の秋ごろだと思うが、南区の公明党の議員遠藤望先生から電話があり、港湾の土地のことで要望がある人がいるので、会ってくれという。
すると、かなり高齢の産廃業者社長と弁護士が来たが、その話が驚くべきものだった。
「中区根岸の日赤病院あたりの土地は、本来は私のものなので、寄こせ」というのだ。
びっくりして聞くと、以下のような話だった。
戦後、米軍が根岸湾の土地に、市内の瓦礫を捨てて埋立をした。
そのとき、われわれは代金を貰っていず、代わりにできた時には土地を上げるよ、という話だったので、俺たちにくれというのだ。
私も驚いて、その時、米軍が「後で土地を上げるよ」と言った書類はお持ちですか、と聞くと、
「当時は、すべて口頭命令だったので、書類などない。若いあんたには分からないだろうが、そういう時代だったのだ」と怒り出さんばかり。
そこで、私は、横浜港湾の歴史の泰斗で、当時はまだ港湾局の理事をされていた田中常義さんに聞いた。
すると田中さんは、さすがに即座に「PD工事ですよ・・・」と教えてくれた。
PD工事とは、プロキュアメント・デベロップメント工事の略で、命令工事、施行工事とされ、米軍の命令工事としての事業だった。
田中さんは、「たしかにやったでしょう、でも米軍が書類もなしに命令することはありえず、さらにできたら上げるよ、などと言うはずがない」と断言された。
そこで、私は港湾局の地下にあった書庫に行き、根岸湾の埋立の書類を調べた。
するとこれが実に驚くべきもので、昭和初年の横浜市の埋立申請の時の計画では、そこは住宅地だった。
昭和初期、つまり関東大震災後で、住宅が不足し、東京では、当時は山手線の内側くらいだった大半の住宅の、郊外の杉並や世田谷への移転が大きく起きていた。
それに呼応し、横浜市でも海岸べりに、程度のよい住宅地を作って移転させようとする画期的な計画だった。
だが、それはあまり進行しない内に、日中戦争から太平洋戦争になり、埋め立て工事は半ば放棄されたままだったようだ。
そこに来たのが米軍で、彼らがPD工事で埋立をやらせ、さらに横浜市が受け継いで、根岸の埋立ができた。
ただ、ここでも計画は進行しなかった。当時は、戦後の住宅難で、程度の良い住宅など論外だったからだ。
その時、神奈川区にあった日本石油が工場建設計画を持ってきたので、喜んで売却したというわけなのだ。
今や、脱石油で、いずれ根岸の製油所も遊休化するときは、「元通りの住宅地にしてはどうか」と私は夢想するものであるが、いかがでしょうか。