松村千賀雄先生時代について書く。
横浜の自民党は、鶴見区の横山健一先生時代の後は、中区の松村先生の時代になった。
これがどうしてなったのかは、自民党ではない私にはわからない。
ただ、われわれの感じでは、いつの間にか自民党は松村先生の一人勝ちになっていた。
その背景には、自民党出の市会議長が、鈴木喜一、相川藤兵衛と、自己の権力の拡大に興味のない人が二代の議長になったからだろうと思う。
その裏で、松村先生は、着々と地盤を広げていたのだと思われるが、その辺は私にはわからない。
ただ、一つ言えるのは、自民党横浜市連の幹事長として市連本部を強化したことだ。
事務局をきちんと作り、元市会事務局職員だった加藤君を雇用して横浜市への議会での質問や、各界からのヒアリングを組織的に行うことにして、これで完全に経済界からの要望を市連本部に一本化した。
そして、1983年5月に議長になった。私は相川先生の後も秘書を続けていて、
「どうだ、俺と4年やるか」と聞かれた。
「もう、4年半も、大久保、鈴木、相川先生とやっているのですから、もういい加減やめさせてください」
私の生涯の最大の失言だと今は思うが、当時の心情だった。
そのまま松村先生についておれば、もう少し出世しただろうと思うが。
このように、4年やるかと言ったように、松村先生の地盤は盤石で、本当に議長を4年やると思われていた。
だが、こうしたことを大変に警戒していたのは、細郷道一市長だった。
「横浜市を完全に支配しようとしているのではないか」と。
それはたぶん正しかったと思う。
一つは市役所内部の問題で、もう一つは横浜市の地域全体に対しての松村先生のやり方だった。
先生は、松村ビルの9階に大きな談話室を持っていて、そこで各局幹部と定期的に「懇親会」を開いていて、情報交換されていた。
そして、横浜市の中に、松村派とよばれる局を作っていったのだ。
当時、細郷市長の秘書だったU氏も「少々やりすぎではないか」と言っていた。
対して地域については、また別の方法だった。
当時、横浜では、各地で病院、特養ホーム、マンション等の建設が盛んに行われていた。
それに対し、いろいろと地域住民から反対運動が起こっていた。
そうしたとき、民間の業者は、次第に松村先生を頼るようになった。
先生は、すると地元の議員等に説得を命じ、あっせんをさせる。
その結果、まとまれば議員には、次の選挙への票になる。
また、松村株式会社は、総合商社なので、なんでも売っている。
企業は、松村から必要な物を購入することになる。よほどの金額で、会社に迷惑をかける物以外なら、通常の商行為であり、特別背任に問われることもない。
市役所相手だと、慎重にやる必要があるが、民間と民間の間では、ほとんど問題はない。
こうして、さらに盤石の体制を作り上げていったのだ。
だが、破局はある日突然起こった。
1988年6月の「リクルートの未公開株の譲渡・受領問題」である。
このとき、多くの国会議員、官僚らに江副社長が、未公開株を譲渡していたが、横浜市では松村先生で、川崎市では、工藤助役だった。
このとき、実は私は、サミット調査のために、アメリカにいて、横浜市の若竹馨さんといた。
彼は言った
「工藤なんて俺の弟子で、なんで俺には来ず、彼に行ったのか不思議だね」
この問題で、松村先生が、罪に問われることはなかったが、その権威は失墜した。
予定の4年ではなく、2年で市会議長を辞めることになったのである。
私が、先生から教わったことで参考になったのは、
「人と会うときは、雨の日に行け」で、
「雨の日は、たいてい人は事務所にいる」だった。
さすがに企業の社長だと思ったものだ。
事務所にいる君、雨の日はお客様のところに行って世間話をすることです。
そこから新しい営業が始まるのですよ。