中田元市長の問題点を指摘したので、一応功績も書いておく。
それは、2008年の国連アフリカ開発会議の時である。
前年の夏ごろに、担当課長の漆原君に、アフリカ映画祭、講座、音楽イベント、芝居などを話したが、そのときはそれで終わった。
その後、12月頃、いきなり彼から金沢区の福祉保健担当部長の私に電話がかかってきた。
中田市長から指摘があった。
「横浜でアフリカと言えば、野口英世で、野口と言えば金沢区の検疫所である。金沢区でなにかしないのか、と言われたので、指田さん、金沢区でなにかやってくれませんか」
「もう時間がないですが・・・」
「予算はなんとかしますから、ぜひお願いします」
そこで能見台の長浜ホールに行った。ここは、旧検疫所を改修してホール、展示室等にしているところなのだ。
そして、ホールの裏の庭に2本のヤシの木があった。
「これだ、ヤシの木を使おう」と思った。
アフリカで、ヤシと言えば、『ヤシ酒飲み』だ、これでミュージカルをやろう。
その他、アフリカ理解講座等も付けて、漆原君に出した。
彼は、時間がなかったが非常に頑張ってくれて、『ミュージカル』の他、アフリカ理解講座、さらに展示会なども加えて、実施業者を決めてくれた。
私は、大学で同じ劇団にいた下川博が、時代小説『弩』でヒットしたときだったので、原案を書いてもらった。そして、脚本・演出は田村光男にやらせることにした。
音楽、振付、演技指導等は、皆田村の知り合いで、「愛・地球博」で「地球村」をやった時のメンバーで、ほとんどボランティアレベルで喜んで参加してくれた。
美術と衣装は、地元の金沢文庫で絵画教室をやっている浅葉和子さんにお願いしたが、これも大成功で、教室の子供たちも、実際の公演のときには、参加してくれた。
高校生ミュージカルなので、県、横浜市の高校演劇連盟に呼び掛けてもらい、参加者を募集し、3月に一応オーデションをやった。
このとき、おかしかったのは、演技と共に歌を歌ってもらい、課題曲を山田耕作先生の『赤トンボ』にしたが、かなり知らないのには、こちらが驚いたものだ。
田村の手で脚本が大体でき、4,5月のゴールデンウィーク中に本格的に稽古をした。
彼のやり方は、脚本を部分に切り、登場人物の感情を演技者の実体験の類似の感情から劇の感情を引き出しつつ、次第に劇の筋に近づけていくという「エチュード・システム」で、参加者は次第に自分の感情を乗せられるようになっていった。
公演は、長浜ホールで土日にやった後、中区のバンカアートでも翌週にやった。
このときは、同ホールは、旧横浜銀行本店で高い天井は素晴らしいのだが、強い反響で台詞が聞き取れなくなるので、田村は多数のマイクを天井から下して台詞を聞かせたのだ。
さすがのテクニツクと感心した。
このあと、バンカアートの池田修さんから、「田村が予定の使用料を払ってくれないので、なんとかしてくれ」との電話が、わざわざ栄図書館にまで掛かってきた。
この年の3月末で、横浜市を無事定年退職して、再任用で地域図書館の館長をやっていたのだが、そこまで電話が来たのである。
もちろん、田村とよく話してくださいと言った。
私の横浜市の卒業事業だった。
実現してくれた中田宏君には、この時は一応感謝した。