昨日の5月29日は、1945年に横浜で米軍の大空襲が起された日である。
これは、同年3月の東京大空襲とは、大きな違いがある。
それは、東京大空襲は、夜中だったが、2か月後の横浜は、昼間、早朝だったことだ。
このことは、日本の防空体制がまったく壊滅していたことを現わしている。
東京の場合、一応防空戦闘機が飛来して攻撃される恐れがあったので、夜中にやったが、1945年5月になると、日本には空襲に対する防空体制はなくなったので、安心して昼間にやり、それも明らかに普通の国民を対象として空襲したのだ。
米軍も、最初は戦略爆撃、つまり基地や飛行場、軍需工場を対象に爆撃をしていた。
だが、意外にも航空機の生産能力は、さほど低下しなかった。
その理由は、日本では航空機の生産においても、全部を大工場で作るのではなく、中小、零細の工場で部品を作り、それを最後に大工場で組み立てるという「日本的方式」だったからだ。
その方式を叩くには、町に混在している中小、零細の工場も叩かないとダメだという理屈で、大都市への無差別爆撃に転換したのである。
もっとも、大都市への無差別爆撃を世界で最初にやったのは、日中戦争での日本の重慶爆撃であり、ナチスドイツのゲルニカよりも先なのである。
そして、この日本への無差別爆撃を指揮したのは、カーチス・ルメイ少将である。
戦後、日本国は彼に、自衛隊設立に貢献されたとことで、勲章を授与しているのは、実に信じがたいことだ。
ドイツが、戦後、アイヒマンに勲章を授与しただろうか、絶対にありえないことである。