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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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藤原智子さんと渋谷昶子さん

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昨日の午後は、ずっと国立映画アーカイブにいて、「女性映画人の仕事」を見ていた。

かつて日本の映画界は、完全な「男社会」で、撮影所にいる女性は、女優を別にすれば、スクリプターと結髪だけで、編集者もいたが、これは撮影所とは別だったようだ。

だから、スクリプター・記録の方と結婚している映画監督は多く、大映の森一生や東宝の本多猪四郎がそうだ。

はじめは、監督杉原せつで、1964年の『冬の日、ごごのこと』という、少女が町で犬と逸れるが、多くの人の助けで再会できるという呆れるほどの作品。これは、なんと「小さな親切運動」のPR映画なのだ。そこには、クリーニング屋の小僧として松山政二が、町の若者として東野英心が見えた。

一番驚くのは、「小さな親切運動」が現在も存在することだった。

藤原智子監督の1960年の『オランウータンの知恵』は、多摩自然動物公園のメスのオランウータンの生活を描くもので、意外に知恵と思考があることに驚く。また、彼女が非常にいたずら好きなことも興味深かった。

1963年の『挑戦』は、渋谷昶子監督の、東洋の魔女と言われた、日紡貝塚女子バレーボールチームの日頃の訓練を基地と描くもので、鬼の大松の練習は異常に過酷だが、1960年代のすべての分野で努力していた日本人の省庁のように見え、前年のモスクワでの世界大会でソ連を破って優勝するシーンには、さすがに涙が出た。

日紡、ユニチカの貝塚工場は今はなく、ユーチューブの「ららいずみ」さんの作品では、球技上、ホームセンター等になっているとのこと。だが、そもそも東貝塚駅は、この工場への貨物船が最初に線路が引かれ、後に旅客の駅がデイタとのことだ。

この頃、日本は、すべて日本人だったが、ソ連チームは、ロシアだけではなく、ウクライナやグルジア等の選手も混ぜてソ連としていたのだが、当時は知らないことだった。

中で、過酷な練習を工場の女性職員・女工が見ている。これは、戦時中に軍需工場で、東宝が作った航空機の軍事映画を三菱、中島、川崎等の工場で上映して「戦意高揚」に役立てていたのを思い出す。ここでは,池野生の音楽が非常に良い。記録映画でも、当時は大オーケストラで音楽を作っていたし、映倫マークがあったので、通常の映画館でも上映されたのだろう。

最後は、『わが映画人生・藤原智子』で、インタビューアーは、渋谷昶子監督。

高校時代から映画が好きだった藤原さんは、東大の美学に行き、ドイツ系の美学理論を学ぶ。

卒業は、1955年で、空前の不況の就職難で、なんとか新理研映画に入る。同時に東大から新理研に入ったのには、松本俊夫がいる。松本によれば、新理研の社長は、社会党右派の議員で、ひどい人間だったので、すぐに労働争議が起き、当然にも組合は敗北して、藤原さんは、その「元気」を買われて日映新社に移る。

新理研で、藤原さんが、最初にやったのは記録だったが、東大では何も教えてくれなかった。

関川秀雄の教育映画の撮影で、女優の岸旗江が、会社に来るカットで、最初の日と最後に日に撮影があり、カバンを右に持つか、左に持つか記録していなかったので、現場で騒動になった。その時、岸旗江が、「両手で持って歩けば繋がるわ」と言ってくれて事なきをえたことなど。ちなみに、岸旗江は、1950年代に独立プロで活躍されたが、武田敦氏と結婚されて引退した。

日映で、『オラーウータンの知恵』を撮ったが、当時五社ではメインの劇映画の添え物として短編を付けていて、それも添え物の候補になったが、親会社の東宝が「これでは、あまりに地味すぎる」と言って公開されなかった。ところが、映画評論家の荻昌弘らが、「これを公開しないのは、まさに猿知恵だ」と言ってくれて公開されたこと。

その後、出産、子育てで現場を離れるが、企画やデスクワークで、会社に残り、子供が大学生になったので復帰するが、安月給だった。その時、日映の重役から、「社員ではなくフリーならば、もっと出す」と言われフリーになる。

歌舞伎の作品が多いのだが、もともとは知識も興味もなかったが、中村麟

彼女が大切にしているのは、「事前の調査、物へのこだわり、発見」だそうで、特に制作過程での発見が面白いとのこと。

                   

最後は、シロタ家の歴史を素材に作品を作ったことが語られて、非常に興味深かったが、私は見ていないので、ここには書けない。

 

 

 


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