細郷道一氏が、横浜市長だったとき、私は市会事務局の職員だったので、まったく付き合いはなかった。
ただ、1979年に中国の上海で、「79横浜上海工業展」という展示会があり、この横浜市代表団の一員として中国に行った。
これは、前任の飛鳥田市長時代に進めていた上海との交流事業の一つとして行われたもので、細郷市長はきちんと前任の飛鳥田市長の政策を継承されたのだ。
この辺は、非常に公平な方だったと思う。だから、自治省事務次官を辞めた後、やや「役不足」と思われる横浜駅東口開発公社の理事長をしていたのだ。自民党べったりだったら、もっと良いところに天下りしていたと思う。
飛鳥田市長が、日本社会党の委員長になり、横浜市長を辞めた時、細郷さんの同級生で当時は、民社党の議員だった河村勝氏が、「横浜なら細郷君がいる」として市長候補に担ぎだしたのだ。民社党は、飛鳥田時代、自民党などよりも「冷や飯」を食わされていたので、こことばかりに「細郷氏擁立」に走り、自民も同調して、細郷氏が横浜市長となった。
当初は、慣れないように見えたが、おおむね飛鳥田市政を受け継ぎ、大きな混乱なく市政を進めたのは、頭の良さだろう。
上海工業展では、私は横浜市団長の細郷道一氏に次ぐ、副団長で市会議長鈴木喜一さんの秘書として中国に行ったのである。
上海での行事が終わると、「ツアー」で、桂林、広東、最後は北京まで行った。
たぶん、桂林の時だと思うが、日曜日で衆議院選挙が行われていた。
当時は、PCもなにもない時代で、テレビも中継していなかった。
そこで、夜、ホテルの部屋にあった昔の電蓄の電源を入れて、日本のNHKを聞いた。
細郷さんの秘書の早川和彦は、「余計なことをしやがる」と思ったようだが、ラジオの選挙結果をメモにして細郷市長のところに早川君は持って行った。
この時は、自民党が負け、野党が勝った選挙だった。
その翌日くらいに、われわれ若い随員は、細郷市長の部屋に呼ばれて酒を飲んだ。
どんなことを話したか、まったく憶えていないが、私は
「ベトナムには独自の民俗音楽があります」と言ったと思う。
なぜベトナムのことを言ったと言えば、当時は、まだ中越戦争があり、桂林の飛行場にはベトナム向けに戦闘機が止まっていたからだと思う。
その辺からベトナムのことになったのではと思うのだ。
もちろん、小泉文夫先生の完璧な受け売りだが、細郷さんは、「へえ、そうかね」と静かに聴いてくれた。