先日の「昭和天皇拝謁記」からには、いろいろと面白いことが出ていた。
1953年1月には、秩父宮が死去されている。よく知られているように秩父宮は、陸軍青年将校らに近く、2・26事件の黒幕の一人とされた西田税とは、士官学校同期生でもあり、青年将校らに同情的とされて、昭和天皇を悩ませた。このことから、「昭和天皇と他の兄弟の父親は別」との説が生まれてきた。明治天皇までは側室がいたのだから、それも変ではなく、特に大正天皇は、心身に障害があったとされていたので、「別の種を」と望んだのは無理もないことだ。
そして、3月にソ連のスターリンが死去し、マレンコフ、さらにフルシチョフが権力を握るようになる。
国内情勢では、次第に吉田茂の力が低下していき、自由党でも鳩山派が出来てきて、他に改進党もあり、保守は分裂していた。社会党も右と左の別れていたが、次第に左派が勢力を増してゆく。
こうした情勢を昭和天皇は、かなり憂慮されていて、「保守団結」を言いたいが、現在の憲法では何もできぬと悩んでいる。吉田茂と重光が手を取ればよいがと思うが、それを外部には言えないと言っている。
そして、4月に総選挙があり、再び吉田政権になったが、ここで
「久原と広川が落ちたのは、愉快だねえ」と言っていて、久原房之助や広川弘禅らが選挙で落選したのには喜んでいる。
昭和天皇は、彼らのような「謀略家」は嫌いで、一番好きだったのは、平野貞夫の本によれば、前尾繁三郎のような温厚な官僚出身者だったようだ。
もともと東大法学部は、天皇制の官僚を養成するために作られたのだから、当然と言えばそれまでだが。
最後に、三笠宮の言動についても、困っていて、どこか進歩派陣営に利するような発言に困惑されている。
しかし、天皇は、新聞等をよく読んでおられて、読書新聞に『細川日記』の広告が出ていて、それについても記述していて、以前の「独白録」のようなものを作りたいと言っている。
だが、それは現在では宮内庁は存在しないとのことだ。
これによっても、「独白録」は、東京裁判への対策の一つだったことが分かると思う。