たぶん、1967年に下川や田村光男らが大学に入学し、劇団にも入って夏が過ぎた頃の秋、私は下川に劇団内の「勉強会」の講師をやらされた。
主に、吉本隆明理論の解説で、今から考えれば、赤面ものだが、下川におだてられてやったのだ。
おそらく、3回くらいやって、そこには4,5人の一年生らが来ていた。
彼らの内の4人は、後に「FUG」というグループを作った。
そして、当時我々が占拠して勝手に使っていた、
「早稲田大学の9号館が警察によって封鎖解除されるとき、バッハの曲を流した」と村上春樹の処女作に記述された連中である。
ちなみに、9号館を占拠していたのは、我々や自由舞台などの劇団だけではなく、考古学研究会などもあり、人形劇研究会というのもあった。
巷の噂では、村上春樹は、その人形劇研究会にいたとのことだ。
封鎖解除後は、なにをしていたか、私の記憶も定かではない。
だが、OB会の記録を見ると、小山裕士作の『黄色い波』を12月に大隈講堂でやっていて、下川と田村は、照明の助手、そして端役で出ていて、私は大道具を担当している。