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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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下川博が死んでいた

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私の友人で、一番付き合いが長かった下川博が、今年の1月2日に死んでいたことが分かった。

少々、驚いた。

彼とは、同学年で、ただ彼は一浪して文学部に入ってきたので、劇団では1年下だった。

彼は、両親が先生で、私の父も教師だったこともあり、また、私は池上、彼は横浜の本郷台だったので、高田馬場から品川に出て、京浜東北で帰っていたので、自然と話すようになり、いろいろと議論するようになった。

一つだけ違うのは、彼は、巨人・長嶋ファンで、私は大学時代から江夏・阪神ファンだったので、そこだけは意見が一致しなかった。

彼は、文学部に5年いたのち、大学院に入り、安堂信也先生のゼミに入った。彼は、後に安堂先生の遺稿集を作っているが、これは大変に立派なものだった。

私は、横浜で普通の公務員生活をしていたが、2年くらいして、何度か劇場で会うことがあり、

「芝居をやるか・・・」で、元劇研の連中を主に、二人で小さな劇団を作った。

そこでは、主に私が脚本を書き、彼が演出して、私は舞台監督もするという分担で、3年続けたが、上手くいかず、彼は沖縄で塾の先生になった。

私は、横浜市職員を続けたが。この3年間で、おそらく100万円は使ったと思う。

なにしろ、きちんとした職についているのは、私だけだったので、稽古等が終わり飲みに行けば、多くは私の払いだったからだ。

だが、実に楽しい「授業料」だった。

彼は、1979年に、文学座創立記念戯曲募集に『お告げ』で合格して沖縄から戻ってきた。

そこからは、NHKでドラマを書いていて、中村吉右衛門の『弁慶』が代表作だと思う。

 

                   

その後、時代小説に代わり、『弩』(ど)は、かなり評価された。

だが、次の『紅と竹虎」は、私ですら、「どうかな」と思う出来だった。

その後も、資料を漁っていて、次回作を構想していたようだが。

次第に体が悪くなり、数年前に会ったときは、要支援で、介護保険の適応を受けていると言っていた。

最後は、施設に入り、そこで亡くなったようだ。

「戦友」的な存在だったので、ここに書いておく。

冥福を祈る次第だ。

 


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