汪兆銘と言えば、日中戦争中に、中国に親日政権を作ったとして、「漢奸」とされる人物だが、1944年に名古屋の病院で病死している。その原因は、1935年に受けた対日強硬派の一味による銃撃の弾が体内の残っていたものだというのも象徴的である(汪精衛というのは、ペンネームだそうで、本名は汪兆銘)。
要は、中国人にとっては、許せない人物だったのだろうか。
汪は、広東省に生まれ、生家は大して裕福ではなかったが、勉学は優秀で科挙試験に合格し、日本に留学させられる。
法政大で、フランス法学を学び、中国同盟会に入り、当時の清朝の王子の一人(溥儀の父親)の暗殺未遂により、死刑判決を受けるが、終身禁固に減刑されている内に清朝が倒れて無罪になる。
辛亥革命の挫折で、渡仏し、1925年の孫文の死で戻り、広州の国民政府の主席になる。
以後おおむね、蒋介石は軍事委員長で、汪が政治を、将が軍事をという分担だった。
だが、満州事変から日中戦争の中で、汪は「一面抵抗、一面交渉」という立場を取り、次第に蒋介石と対立するようになる。
1940年に、南京に対日協力政権を作り、ついには日本がバックアップする中国維新政府を作るまでになる。
彼の息子も、「父は立派な人だったが、政治的には上手くできない人だった」と言っているように、インテリの弱さだろうか。
また、蒋介石の浙江財閥のような経済的サポートもなかったようだ。
だが、上海にいて、日本統治下でも、映画やレコード会社には、表向きは日本に従っていても、面従復配していた知識人はいて、彼らと汪兆銘は、どうような立場だったのではないかと私は思うのだ。
戦後、上海にいた、映画、音楽等の連中は、1949年の新中国成立後は、香港に移り、香港映画や音楽を作り出すようになるのだ。
実に中国人の、生き方の粘り強さ、したたかさを示すものだが、汪兆銘は、ある意味で反対の人物だったと言えるだろう。
日大講師・堀井弘一郎氏の講演 朝日カルチャーセンター横浜 から