これは、1962年の大ヒットした有名な劇の映画化で、私が見たのは1966年5月頃、早稲田大学文学部自治会の新入生歓迎映画会でだった。
この時、私はすでに早稲田の映画研究会にいたので、当時委員長だった曽根さんは、
「マル戦は、これが好きだなあ」と皮肉を言ったものだ。
だが、この時、曽根さんは、加藤泰の他の作品をそうは見ていなかったと思う。当時、加藤はそんなに人気のある監督ではなかったからだ。
この劇の『真田風雲録』は、大変な反響を残していたもので、1973年12月に西武劇場で、福田善之作・演出の『焼跡の女侠』を見て、私が「面白いですね」と言ったとき、
劇場にたまたまいて、高校の演劇班では4年上におられた栗原さんは、
「私は、真田風雲録を見ているからねえ・・・これは」と言った。
事実、『真田風雲録』の影響は非常に大きく、一時は井上ひさしが、劇作を諦めようとしたほどだった。
また、作者の福田善之がいた劇団青芸には、唐十郎が研究生でいたのだ。さらに、このミュージカル劇という発想は、寺山修司にも影響を与えたと思うのだ。
さて、この映画の冒頭で、関ヶ原の戦いの跡の戦場でコソ泥で生きている子供たちが出てくるが、佐助を演じているのは、当時住田知二、現風間杜夫である。
話は、大坂冬の陣から、夏の陣での、真田十勇士のことになるが、結構重い展開である。
もともとは、沢島忠が監督することで始まったらしいが、沢島には「60年安保」は関心がまったくなく、加藤泰のところに行ったとのことだ。
だが、加藤泰も、相当に無理しており、相当に重い映画になってしまい、あったであろう芝居の軽さは感じられない。
異彩を放っているのは、大野修理の佐藤慶、真田幸村の千秋実、淀君の花柳小菊といったところだろうか。
花柳小菊が、最高に傑作で、ロカビリー大会で踊っている中に現れて、
「みなさん、こんな退廃的な音曲はだめです」とロシア民謡的なコーラスをさせるところが、日共・民青の「歌声運動」で大いに笑える。
もちろん、中村錦之助と渡辺美佐子は、当然若くてはつらつとしていて良いが。
「カッコ良く死にてえ」は、当時結構流行った文句だったとかすかに記憶している。