これは、1992年に東品川にできたアート・スフィアのオープニング公演の一つとして行なわれもので、私は雑誌『ミュージック・マガジン』で酷評させてもらった。
その理由は、つまらなかったからで、今回も同じだった。
当初、これはKAAtの公演だと思い、5階の劇場入口に行くと
「これは違います、県民ホールです」と言われ、神奈川県民ホールに行く。
先日亡くなられた一柳慧芸術監督の念願だったのかと思うが、できは良いとは言えなかった。
なにより、フリップ・グラスの音楽が前にも増して不愉快だった。
ミニマルズムだが、要は『ショナ族のムビラ』などの、アフリカの民族音楽のパクりで、1960年代の欧米の知らない人には珍しかっただろうが、民族音楽を熟知している我々には、不愉快なだけである。
ルシンダ・チャイルズの振り付の、その機械的動作も、文楽や人形振りを見ている日本人には少しも衝撃ではない。
そして、ロバート・ウイルソンの台本、隣の席の女性は、パンフを見ていたが、わかるはずもない。
余程、「無理ですよ」と言いたかったが止したが、実に複雑なメッセージを内包しているのだ。
彼曰く、1幕は、「列車のある風景と家族」 「昨日の葬列とそれにまつわる司法の機能」 「平等の審判」である。
こんなことを読み取れる人間がいたとしたら、それは完全に敏感関係妄想患者だろう。
吉本隆明曰く、「劇的言語帯の上に劇的言語帯は成立する」ので、劇的仕組みがわからないところに劇は成立しないのである。
1992年と同様に、ひどくつまらない公演だったことは間違いない。
神奈川県民ホール