1964年10月10日は、東京オリンピックの開会式が行なわれたときです。
私は、高校2年で、この日は、学校は休みだったと思う。
この前に、都立高校では、オリンピックの試合の券の抽選がクラスで行われていました。
全校で、各競技毎に何枚とあって、クラスで抽選したのです。
もちろん、タダではなかったはずですが、東京中の学校で、オリンピックを国民が挙げて祝おうというムードがあったのです。
去年のインチキオリンピックとは、まったく意味がちがいます。
なぜ、去年のオリンピックが駄目だったかといえば、その出だしの動機が不純だったからです。
3期目の都知事選に出るとき、石原慎太郎が公約がないので、いきなりオリンピック誘致と言い出したことが不純の始まりで、これが現在の「オリンピック汚職」の基になっているのです。
不純なものは、不純な結果を招くということの典型です。
さて、この1964年の東京オリンピックの結果、実は大きな事が起きていました。
それは、映画の不振です。
スポーツの持つ、本物の戦いのリアルなドラマの面白さに、日本国民は興奮するようになってしまい、作り物のドラマに飽きてきたのです。
このことは、1964年の秋、巷でヒットしていた映画は、勝新太郎の『座頭市』とピンク映画だけだったことが、そのことを証明しています。
この後、日本映画はずっと低迷の時代に入るのですが、その原因は、よく言われるテレビの出現ではなく、東京オリンピックの放送だったのです。