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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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『散華の世代からの問い 吉田満の生と死』

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敗戦特集で、吉田満の番組が再放送された。彼が亡くなった1年後の1980年に放映されたもの。

                

吉田の『戦艦大和の最期』は、昔読んで感動したし、新東宝映画も良いできだった。

当時は、まだ戦争の体験者が沢山いたので、きちんとしたものができたのだ。

日本映画界でも、戦争に行かなかった監督は、黒澤明と市川崑くらいで、皆従軍している。

この二人が従軍しなかったのは、軍需企業としての「東宝のお力」によっている。

さて、吉田は、晩年、当時の1980年代の日本の繁栄をかなり疑問に思っていたようだ。

「このような精神を失った繁栄でよいのか」と。

それは、同時に彼が、戦前の日本社会に対しても同様の思いを持っていたようだ。

資本主義的繁栄の中で、日本的なものが喪失されつつあると。

多くの日本人は、戦前も、そう思っていたようだ。だが、これは大間違いなのだと私は思う。

明治以降の日本は、大日本帝国憲法によって、外形的には一応西欧的な立憲民主主義国家だった。

だが、天皇制と統帥権に代表されるように、その精神は古い擬古典的、封建的なものがあった。

だから、大正時代を過ぎ、昭和初期になると、日本の社会は、少なくとも都会では、西欧的な大衆文化が成立した。宝塚歌劇も、プロ野球も、ラジオ放送もあったのだから、現在と違うのは、パソコンとテレビ、携帯電話くらいだった。

だが、日本の大部分の農村は、古い社会で、封建的な地主制下にあった。

そこに1929年の世界恐慌が襲ってきた。

社会の経済的混乱と格差、貧困の拡大の中で、日本の問題は、天皇の側近の「君側の奸」にあるのだという偽説がばらまかれた。

主に陸軍だったようだ。現在と異なり、陸軍は日本の地方の社会で大きな影響力を持っていた。

だが、皮肉なことに、昭和天皇は西欧的そのものであり、近衛文麿や木戸幸一らの側近も西欧派で、右翼的な精神主義が大嫌いだった。

こうしたことは、ほとんどの日本人が知らないことだった。

映画『東京裁判』が公開された時、ある将校は、

「私は従軍していたが、こんな背景があったとは名にも知りませんでした」と小林正樹監督に言ったそうだ。

その意味では、吉田満少尉も、普通の庶民と同程度の知識しか持っていなかったことがよくわかった。

まあ、そんなものだろうとあらためて思った。

NHKBS 演出吉田直哉


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