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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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『時計屋さんの昭和日記』

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横浜都市発展記念館に行くのは、たぶん二度目で、今回は「激震、鉄道を襲う」展を見に行くためだ。

正直に言って、「ああ、大変だったろうなあ」と思えるしかない。

私たちは、その後の大震災を体験しているからだ。

 

                                                           

受付で、販売資料を見ていたら、この2015年の展示の資料があったので、買う。

これが、実に面白い。

日記そのものは、あまり載っていないが、この時計屋さんの下平博凞(しもだいらひろき)と言う人の軌跡が昭和そのものなのだ。

1930年1月、13歳の下平少年は、長野県伊那郡から磯子区西町の谷崎時計店(やざき)に来る。

伊那郡の村では、養蚕が盛んだったが、1929年の大恐慌で、アメリカ向けの生糸輸出が激減し、農家の子女は、都会に働きに出されたのだ。

ニュースフィルムだと少女が身売りする映像が出てくるが、少年も同様だったわけだ。

この時計店の主人も実は、伊那の出身で、店には伊那から来た少年も他にいたとのこと。

これは、生糸を介した伊那と横浜の関係があったのだと思われる。

住み込みの店員として、時計の修理のほか、お客だった関内の税関、県庁、民間企業等にも御用聞きに行かされる。自転車で行くために、自転車の練習もさせられたとのことだ。

そして、尋常小学校でも成績良好だった下平少年は、早稲田大学の通信教育を受けている。

当時、公教育が不備だった当時は、高等教育の講習録や通信教育が盛んだったのだ。

かの創価学会も、戦前はテスト屋や私塾のようなことをやっていた。だから、創価教育学会という名称だったのだ。

20歳になり、故郷に戻って徴兵検査を受けるが、第一乙だった。小柄だったからで、すぐには召集は受けない。

1935年には、横浜で復興博覧会が行なわれるなど、モダン都市横浜の賑わいがあり、下平青年もそれなりに享受したようだ。

だが、日中戦争となり、1939年4月に召集令状を受け、相模原の通信連隊に行くがなんと即日帰郷。

脚気だった。徳川時代と同様の「江戸わずらい」、ビタミンB1欠乏症で、谷崎時計店では、きちんと白米を食べさせていたのだろう。

一方、彼の故郷の伊那谷では、満州移民が行なわれていて、1945年10月に、父準太郎は、これに応じて一家をあげて満州に行く。もともと、小作人だったからだ。

彼らは、満州の東北部で、ハルピンからさらに先の太古洞というところに移民した。

因みに、下平博凞は、12人兄弟だった。昔、左幸子主演で『母ちゃんと11人の子供』という映画があったが、よくあったことなのだ。

横浜の空襲と戦後の敗戦。

1944年3月に、彼は召集を受けていて、中国に行っていて、1946年に日本に戻ってきて、再び谷崎時計店で働く。

そして、1948年、彼は自分の店を根岸の対岸の滝頭に開くことができ、3年後には見合い結婚し、3人の子を持つことになる。

1946年には、博凞は、父母と妹が帰郷の最中に病死したことを知る。栄養不足からくるものだった。

戦後の横浜では、米軍の進駐、根岸湾の埋立、根岸線磯子駅の開通などがあり、新幹線ができ、東京オリンピックも行なわれる。

次第に時計の修理の仕事は減るが、それでも店に出ていて、1994年動脈留破裂で、店の中で死ぬ。76歳だった。

長男の修嗣によれば、「父は酒もタバコも飲まず、賭け事も嫌いの石部金吉で、新聞を読むのが好きで、なんでも取っておく人だった」とのこと。

ここには、昭和の日本を作り支えた無名の人の記録がある。

よく、バスや地下鉄に乗っていると、かなり強い方言で会話している高齢者に会う。

『こういう人たちが横浜を作ってきたのだな」と思うことがあるが、これはまさにその例だろう。

きわめて優れた企画だったと思う。

 

 


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