『東洋の魔女』は、言うまでもなく1964年の東京オリンピックの女子バレーボールでソ連に勝ち、優勝した日紡貝塚を中心メンバーとしたチームのことで、その80代になった女性たちの姿を捉えたドキュメンタリーである。
冒頭に彼女たちの食事会の様子が出てくるが、それは亡くなった谷田絹子の午餐のようだ。
彼女は、2020年12月に急逝していて、後は主将の河西昌枝が2013年に亡くなっている。
そして、1960年代の彼女たちの日々の練習の様子が挿入される。
日紡貝塚工場体育館での練習で、「鬼の大松」のきびしい練習が見られる。
ここは、電通で渋谷詠子監督が撮って、カンヌ映画祭グランプリの『挑戦』が入れられるが、非常にすぐれた映像であることにあらためて感心する。
鬼の大松と言われたが、ここでも描かれているが、みんな出休みに映画を見にいくこともあった。
また、この頃テレビで見た彼女たちの言葉では、
「先生は、生理を非常に気にする方だった」と女性に優しい面ももっていたようだ。
渋谷の映画で印象的なのは、この厳しい練習を体育館で、普通の女子職員、当時の言葉で言えば女工が見ていることだ。それが映画撮影用なのか、普通なのかは分らないが、私は通常に行なわれていたと思う。
魔女たちは、そうした女工の前で、まるでダンスでも踊っているかのように、やや楽しげに、リズミカルに足上げなどをしてみせる。
また、女工たちも、その工場に共に勤務していることの一体性が出ているようにも見える。
こうした工場運営は、戦時中の日本中の軍需工場で行なわれていたことである。
戦時中に東宝は、三菱、川崎、中島飛行機等から予算をもらって戦地で航空機の活躍を描く「戦記シリーズ」を制作していた。
そして、これは工場の労働者に見せていたのである。労働意欲の向上に。
さらに、この日紡貝塚工場へは、阪和線東貝塚駅から貨物線が引かれていたのだそうだ。
そのことは、ララいずみさんのユーチューブチャンネルで出てくる。また、
この貨物線は、東貝塚駅では、旅客よりも先に出来たとのことだ。
工場は、今はグランドやホームセンターになっているとのこと。
さて、1936年のベルリンオリンピックの次の1940年の五輪は東京の予定だったが、日中戦争の激化で延期になる。
戦災と戦後の経済復興の映像も挿入される。
そして、1964年10月23日、初めて五輪の種目となった柔道無差別級で、神永がオランダのへーシンクに負けた夜、
ソ連との決勝が行なわれる。
この頃、ソ連のエース・アタッカーは、インナ・リスカルだったが、彼女はロシアではなく、アゼルバイジャンだったそうだ。
当時のソ連選手は、共和国全体からのオールスターだったのだから強かったわけだった。
そして、左のアタッカー宮本のサーブの返球のとき、ソ連はオーバーネットをして日本が勝つ。
NHKの鈴木文弥アナウンサーは叫んだ
「金メダルポイント!」
ゲームの中では、アニメの『アタックNO1』の映像も挿入されるが、声はなし。
権利関係からだろうか、惜しいことである。
ここに出てくる、かつての魔女たちは、地域で家庭で、皆普通の高齢女性になっている。
しごく当然のことである。
監督ジュリアン・ファロ 撮影山崎裕
横浜シネマベティ