「霧にかけた夢」とサブタイトルされた本で、林悦子は、1975年3月に松本清張が、霧プロダクションを作った時に、唯一の職員として雇用された。
霧プロは、松本清張の小説『黒地の絵』を映画化することを目的に設立されたのだが、これが実に問題の小説だった。1950年7月に、朝鮮半島に送られる黒人兵が北九州市で反乱を起こした事件を基にしている。黒人兵に乱暴された女性が、朝鮮から送られてきた兵士の死体に、その本人を発見するという話である。
そして、松竹の監督のみならず、東宝の森谷司郎らも映画化を企画し、海外で撮影することなども考慮したが、結局できず、その間に野村芳太郎は、他の作品に行ってしまい、終には松本も1992年に倒れて7月に死んでしまう。
私は、この話は映画化されなくて良かったと思っている。もし、米国で公開されたら、人種差別だと批難されたにちがいない。
そもそも、黒人兵たちが、祇園太鼓の音に鼓舞され、本能を呼び覚まされて反乱を起こすと言うのが、間違いの始まりなのだ。
小倉祇園太鼓というのは、富島松五郎が「勇みコマ」などと言って勇壮に叩くものではなく、「カエル打ち」でずっと静かにやっていくものなのだ。
あの映画『無法松の一生』の祇園太鼓は、岩下俊作のアイディアにもとずき、監督の稲垣浩が音楽担当と工夫して作ったものなのである。
さらに、「アフリカの音楽イコール太鼓」という図式が、間違いである。アフリカ内陸の小国のブルンディのドラムが有名で、日本にも何度も来ているが、ああいう勇壮なのは例外である。
もちろん、アフリカ各地に太鼓はあるが、主に伝達用に使用されるもので、トーキングドラムのようにメッセージを伝えるもので、本能を呼び覚ますと言ったものではない。
この辺のアフリカ音楽についての無知は、松本清張らの当時の日本人には仕方ない点もあるが、ひどいと言うしかない。