昨年、「文藝春秋」に掲載された三船敏郎の伝記で、言うまでもなく黒澤明と関係が深いので読む。
特に新しい事実を知ったことはないが、戦争が終わって熊本から三船が戻って来たとき、横浜で港湾関係の業務についていたというのがあり、そうかと思う。
横浜の古い人には、三船と会った、家に来た等々のことを言う人がいて、本当かなと思っていた。
だが、東宝のニューフェイスに1946年5月になるまで、三船が横浜にいたとすれば、その後も昔を思い出して来たこともあるはずだからだ。
三船と黒澤明のことに言えば、『酔いどれ天使』に尽き、黒澤が「この映画に三船敏郎が出たことで、自分らしいものが掴めた」と言うのは実に正しいだろう。
それまでの黒澤映画の主人公の藤田進では、どことなく古臭いところがあったからだ。
三船の新しさ、それはやはり戦争をくぐって来た「アプレゲール」性にあるだろう。
しかも、下の左の写真でわかるように彼は本来すごい二枚目である。
実を言えば、つい最近まで私は『酔いどれ天使』の主人公は三船敏郎だと思い込んでいた。
だが、あの映画の主人公は、酔いどれ医者の志村喬なのである。
しかし、三船のギャングがあまりに凄かったので、三船が主役のように見えてしまうのである。
東宝を離れ、三船プロダクションを作ってからの成功と失敗は、三船敏郎らしい豪快さと、真面目さ繊細さ等の現れそのものだろう。
合理化を進める東宝の人員整理の受け皿になり、ロートルのスタッフを自身のプロに入れたというのも三船らしい律儀さで、その意味では1960年代の映画界の合理化の犠牲になったわけである。
彼の晩年の夫人との離婚騒動は読むのも辛い。
最後の作品になった、熊井啓監督の映画『深い河』を見たとき、「この老化はひどい」と思ってものだが、すでに親族の顔も判別できない認知症だったとのこと。
戦後、多くの俳優が出たが、やはり三船敏郎がナンバーワンだったと思う。