昨日は、中区吉田中学コミュニテイ・ハウスで、『1964年東京オリンピックの頃』をやった。
横浜港と山手のフェリスなどが出てくる、1933年に清水宏監督の『港の日本娘』から始まって、戦前、戦中、戦後の作品を見た。
小津安二郎の『非常線の女』の日本大通り、成瀬巳喜男の『君と別れて』の京浜急行と小柴漁港、『煉瓦女工』の生麦漁港など。また、戦時中の黒澤明の『姿三四郎』の轟夕起子と何度も会う神社の、西区の浅間神社など。
戦後は、『俺は待ってるぜ』の新港埠頭と新港橋と税関ビル、野毛の街頭、篠田正浩監督の『わが恋の旅路』の港橋と横浜市役所、伊勢佐木町の映画館、鶴見の花月園、南区の捺染工場。
そして、横浜駅東口駅舎が出てくる吉永小百合の『泥だらけの純情』、『赤いハンカチ』のニューグランドと山下公園、野毛の遊園地、県立図書館などは、今と大きく変わっている。
『乾いた花』の賭博シーン、『紅の流れ星』の偽神戸港など。
『赤い鳥逃げた』の本牧ふ頭、その辺で時間がなくなり、『愛と死を見つめて』と『東京五輪音頭』はカットして、映画『東京オリンピック』のラストシーンのみを見た。
館長の川澄さんも、一応テレビで見ていたが、あの閉会式が、あんなにも盛り上がり、混乱したものだったとは初めて知ったとのことだった。
日本選手団が整然と入場して来たが、すぐに各国の選手の乱入で大混乱になる。
ユニフォーム姿で走ってきたアフリカ系の選手、バンドを傘で指揮する選手、ゴミを人力車で運んでしまう選手など。
それは、混乱と言えば混乱だが、オリンピックが標榜する「世界の交流」の姿そのものだった。
当時高校生だった私も見ていて感動したものだが、川澄さんも新たに見て感動したそうだ。
だが、コロナ問題の今日、こんなことは到底無理だし、そうなるとやはりオリンピックを開催する意義は極めて低いのではないかと思うのだ。