Quantcast
Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3529

『スズさん 昭和の家事と家族の物語』

$
0
0
大田区久が原に昭和の家事博物館を作った小泉和子さんの母・スズさんの物語。普通物語というと、NHKの大河ドラマのように、英雄や偉い人の話だが、これは普通の女性の話で、きわめて珍しい。
          
明治末に鶴見区の農家に長女としてに生まれたスズさんは、一度徳川家の方の家に行儀見習いで行った後、20歳のとき、東京都の技士だった小泉氏と結婚する。この上流の家での行儀見習いというのは、よくあったことで、私の母も、麻布の若い医者夫婦のところに行き、料理なども教えてもらったそうだ。農家の口減らしと花嫁教育を兼ねたものである。そして、住んだのは小石川で、二人の女と一人の男が生まれるが、男の子は伝染病で3歳で死んでしまう。昭和初期は、まだ幼児死亡率は高かったのだ。そして、太平洋戦争になり、1944年から東京にも空襲が来ると、家は強制疎開で壊されてしまう。今考えると信じがたいことだが、より少ない延焼のためには、強制疎開での家の取り壊しは実行されたのだ。そして、一家はスズさんの母方の実家の新子安の貸家に入ることになる。長女の和子は、学童疎開で、宮城県の鳴子温泉に行くが、食糧はなく体を壊して鶴見に戻ってくる。1945年5月29日の横浜大空襲に家族は遭遇する。子安の家で、空襲を受け、初めは近所の防空壕に潜んでいたが、近くに焼夷弾が落ちたことから、そこを出て鶴見を彷徨することになる。和子は、艦載機の機銃掃射を受けて、操縦士と目が合ったと証言する。だが、近くの民家に逃げ込み、難を逃れるが、機は何度も旋回して襲って来たそうだ。半分遊びみたいなものだったとの証言も他にあるが、本当にひどい無差別殺戮だった。それほどに力の差が歴然だったのだ。これらの無差別攻撃を指揮した米軍の少将カーチス・ルメイに日本国は、戦後勲章を贈っているのはどういうことか。下の妹二人を連れて和子は、猛火のなかを逃げ惑い、昼頃には、おばあさん、そして母親と再会する。
戦後、平和になり、小泉家は、大田区久が原に自分の家を建てる。建築士の父の設計で、国民金融公庫から37万円の借りてのものだった。二階建てで、下に家族六人が住み、二階は下宿人(学生)に貸したという。その日々の生活になるが、朝の食事の支度、弁当作り、午後の掃除、洗濯、そして夕食、その後は夜なべ仕事で、繕い物。一日が非常に忙しいのだが、母のスズは、楽しむようにやっていたとの回想。縫い物は、私などもやってもので、破れた靴下の穴を繕うのは私もやったものだ、電球の切れたのに靴下を被せて。洗い張りなども、季節ごとに家でもやっていたと思う。そして、小泉和子さんは、母親の仕事ぶりを残そうとビデオ化する。これは、非常に貴重な記録だと思う。ただ、一つだけ言いたいのは、この方の人生の中で、娯楽というものはあったのだろうか、と言うことだ。茶の間には、ラジオはあったが、勿論テレビはなし。この世代の方の娯楽はなんだったのだろうか、知りたいところだ。久が原にはなかったが、すぐ近くの鵜ノ木には映画館あったので、行ったのかどうか。私は、そこで1965年にTBSのディレクターだった今野勉が監督した国映のピンク映画『裸虫』を見たことがある。
これを見ると、日本の近代は、戦争に向けて庶民を総動員したが、それは表層で、生活の根本はほとんど変化しなかったように思える。政治など空しいものだと思った。横浜シネマリン



Viewing all articles
Browse latest Browse all 3529

Trending Articles