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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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『帰らざる黄金の日々』

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2004年に、関西テレビで放送された南海ホークスのドキュメンタリー。1950年代末、東京大田区池上小学校の野球部の連中の贔屓は、南海と西鉄で、部に入れてもられない素人の私が、巨人ファンと言うことは非常に恥ずかしかった。なぜなら、当時の巨人はセ・リーグでは優勝するが、日本シリーズでは西鉄、南海に勝てなかったからだ。セ・リーグは、当時ましなのは巨人の他は、阪神と中日だけで、国鉄(ヤクルト)、広島、太洋(DeNA)は、ほとんど問題にならないチームだったからだ。レベルで言えば、今日のノンプロ以下だと思う。
南海ファンの連中でも、杉浦ファンと野村ファンに別れていて、どちらかと言えば杉浦ファンの方が多かったようだ。杉浦の実際の投球は見たことはないが、1959年の巨人との日本シリーズのテレビは見ていて「すごい!」と思った。巨人の高田、土井などが杉浦の投球に、腰を引いて明らかに逃げているのが見えた。なにしろ、この年の杉浦の成績は、38勝4敗というのだから信じがたい。野村も、「杉浦が投げているときは、負ける気がしなかった。この4敗というのは、初回に1,2点リードしてそのまま南海が点を取らず、最後に逆転されたというものだった」と言っていた。1965年、戦時中から監督を務めてきた鶴岡を退任させて蔭山を後任監督にしようとしたが、蔭山が急死して、鶴岡が再登板した頃からおかしくなる。鶴岡の後、飯田徳治が監督をしたが駄目で、野村が1968年に捕手との兼任監督になる。これは、阪神に村山、西鉄に稲尾の「青年監督」ができたことに続くものだったが、野村が一番成功するとは誰も思わなかった。野村は、ホームランか三振のバッターで、今から見ると信じがたいが「頭の悪い打者」と思われていたからだ。この頃から、阪急、さらに西武の時代になり、1977年に野村が公私混同との理由で首になった頃から、長期低迷になる。この頃の南海には、鶴岡・杉浦・広瀬という系列と会社オーナーと野村という人脈の対立があったというのは興味深い。特に、鶴岡と野村が仲が悪かったというのは、野村が後に監督として成功するなど、「生意気」だったからだろうか。杉浦や広瀬は、上の者に従順な人間だったのだろうが、一番鶴岡に可愛がられたのは、国貞だったと言うのがおかしい。大阪難波の大阪球場には一度だけ行ったことがある。議長秘書の時、大阪で指定市都市の議員野球大会が開かれ、チームに同行して大阪に行った時だった。もちろん、正規の市外出張としてのお仕事だったのだから信じがたいことだが。その始球式に出て、大阪球場のグランドに立ったのだ。
               南海がダイエーに代わるときの監督は杉浦で、1989年に福岡に行ってもダイエーの成績は振るわず、王貞治が監督になっても始めは負け続きで、今日の絶対的な強さを思うと信じがたい。大阪スタジアムは完全に壊されて、難波パークスになり、一応南海ホークスの記念コーナーがあるそうだが、そこに野村の記録は一切なかったが、今年やっとできたようだ。大阪に行ったら、一度見に行こうと思う。
日本映画専門チャンネル



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