この映画については、いろいろな立場からの議論があるだろうが、非常に公平に描かれていると思う。なにしろ、元機動隊にいた人の証言も出てくるのだから。また、元大平正芳外相の秘書で、娘婿になり、衆議院議員となった森田一氏の証言が傑作。彼曰く「大平は、憲法を軽視していた、こんなことは口には出せないが」これは、大平ら自民党池田派の流れをくむ人たちの本音だと思う。さらに、これで痛快だったのが、皆が口を合わせて「革マルと日本共産党が宣伝する時は出てきて、いざというときは逃げてしまう」と言って嫌われていることだ。この二つの党派は、相模原の道路の一番良いところに位置していたのだそうだ。
さて、1972年夏に起きた「戦車闘争」については、私はまったく無関心だった。と言うのも、6年でやっと大学を出て、演劇と政治からも手を切って、普通の公務員生活になろうとしていたからだ。この頃は、まだ東映には加藤泰がいて、大映は前年に潰れてしまうが、増村保造の映画『遊び』には感動したものだった。そして、この闘争は、実は横浜よりも相模原が中心だったことを初めて知った。横浜では、瑞穂埠頭の入口の村雨橋の通行許可を、道路法の規定によって飛鳥田一雄市長が取り消したことが大きな話題になったが、むしろ本題は相模原でのテント村の座り込みが全体の焦点だったわけだ。それは、当時の「ベ平連」の連中のよって主導されたもので、このベ平連というのも、小田実は全く無関係だが、周囲の人はほとんどが元日本共産党員で、その意味で私は好きになれなかった。しかし、ベ平連の「規則なし、組織なし、そのときにやりたい奴が来てやる」というのは、今日の世界中の民衆運動の原型になっており、その意味で小田実は先駆的だったと思う。
映画の最後の方で、社会党の相模原市議で、最初にある日突然に戦車の前に立ち、戦車を一時だが止めて、その後も運動の中心だった丹治栄三氏が出てくる。91歳で、施設におられて耳も遠いようだが、この時の話なるといきいきとして話す。彼は、元は飛鳥田氏の秘書をやっていたが、自分でも豆腐屋もやっていたが到底生活は十分な出来ず、奥さんが印刷屋をやって支えていたとのこと。戦後の左翼運動の裏側がよく分る。
最後の方で、日米関係のことになり、日本はアメリカにとっての出動基地で、「不沈空母」にすぎないことが出てくる。この不沈空母発言は、中曽根首相が言って問題になったが、元は日本軍が言い出したことだった。「日本は不沈空母だから、いずれ勝つ」と。だが、不沈空母の代わりに、当然にも日本列島は移動出来ず、米軍の無差別爆撃を受けることになり、敗戦となったわけだ。最後、米軍の道路使用は、道路法の政令の改定で使用自由になってしまい、テント村も強制撤去させられる。私が直接に知っている人は、当時横浜の交通労組役員で、その後磯子区選出県会議員となった林貞三氏のみだった。シネマベティ
さて、1972年夏に起きた「戦車闘争」については、私はまったく無関心だった。と言うのも、6年でやっと大学を出て、演劇と政治からも手を切って、普通の公務員生活になろうとしていたからだ。この頃は、まだ東映には加藤泰がいて、大映は前年に潰れてしまうが、増村保造の映画『遊び』には感動したものだった。そして、この闘争は、実は横浜よりも相模原が中心だったことを初めて知った。横浜では、瑞穂埠頭の入口の村雨橋の通行許可を、道路法の規定によって飛鳥田一雄市長が取り消したことが大きな話題になったが、むしろ本題は相模原でのテント村の座り込みが全体の焦点だったわけだ。それは、当時の「ベ平連」の連中のよって主導されたもので、このベ平連というのも、小田実は全く無関係だが、周囲の人はほとんどが元日本共産党員で、その意味で私は好きになれなかった。しかし、ベ平連の「規則なし、組織なし、そのときにやりたい奴が来てやる」というのは、今日の世界中の民衆運動の原型になっており、その意味で小田実は先駆的だったと思う。
映画の最後の方で、社会党の相模原市議で、最初にある日突然に戦車の前に立ち、戦車を一時だが止めて、その後も運動の中心だった丹治栄三氏が出てくる。91歳で、施設におられて耳も遠いようだが、この時の話なるといきいきとして話す。彼は、元は飛鳥田氏の秘書をやっていたが、自分でも豆腐屋もやっていたが到底生活は十分な出来ず、奥さんが印刷屋をやって支えていたとのこと。戦後の左翼運動の裏側がよく分る。
最後の方で、日米関係のことになり、日本はアメリカにとっての出動基地で、「不沈空母」にすぎないことが出てくる。この不沈空母発言は、中曽根首相が言って問題になったが、元は日本軍が言い出したことだった。「日本は不沈空母だから、いずれ勝つ」と。だが、不沈空母の代わりに、当然にも日本列島は移動出来ず、米軍の無差別爆撃を受けることになり、敗戦となったわけだ。最後、米軍の道路使用は、道路法の政令の改定で使用自由になってしまい、テント村も強制撤去させられる。私が直接に知っている人は、当時横浜の交通労組役員で、その後磯子区選出県会議員となった林貞三氏のみだった。シネマベティ