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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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スカイビルには、横浜放送映画専門学院があった

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昨日は、スカイビルの回転レストランについて書いたが、ここには今村昌平が始めた横浜放送映画専門学院があった。ここは、今では日本映画大学になっている。最初、これを作った時、「学校で映画作りが教えられるものか」という声があったが、今では映画のみならず、テレビ業界では、こうした専門学校出のスタッフが大半だとのことだ。今村は、松竹から日活に移籍し、優れた作品を作っていたが、60年代中頃には、日活を出て今村プロを作るようになる。こうした課程で今村が見たのは、日本映画各社の撮影所が持っていた「スタッフ、キャスト」の養成機能の喪失だった。従来、撮影所は、映画を作るだけではなく、スタッフを養成する機能を持っていたのだ。だから、映画監督になるには、映画会社の社員になって撮影所で作り方を学ばなければならないとされていた。それが最初に問題となったのは、東宝が1957年に石原慎太郎に『若き獣』で監督をさせようとしたことだった。これには、東宝の助監督が大反対し、今後外部から監督をさせるなら、東宝内部からも1人づつ監督に昇進させるとなり、これで岡本喜八や恩地日出夫らが監督昇格することになる。この石原慎太郎の映画ができたとき、恩地らも試写を見たが、その感想は、「意外にも普通のできで、素人でも監督はできるのではないか」という驚きだった。私は、依然見たが慎太郎らしくなく、弱者を擁護するような平凡なできだったと思うが。それは、当然で石原慎太郎監督以外は、全部本当のプロだったからだ(このときは、組合の反対があるとのことで、撮影等のスタッフは全部管理職、助手は外部の独立プロの人だったとのことだ)。
       
監督は、周囲がきちんとしたスタッフを配置すれば、誰でもできることは、後のバブル時代に「素人監督」が続出したことでもよくわかるだろう。今村昌平は、戦後の映画監督で最高だと私は思っているが、こうした映画のスタッフ作りの新しい方法を始めたことでも大変な業績があったと思うのだ。今や、映画やテレビの専門学校は多数あり、ここでは多くの作家、元監督、スタッフ等が教員として働いている。彼ら、半失業者の第二の人生を作り出したことでも、今村昌平の貢献は大きかったと思うのだ。




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