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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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『M』

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Mとは言うまでもなく、三島由紀夫で、彼の作品と生涯を元に、モーリス・ベジャールが、黛敏郎の音楽を得て作った作品。今回は、東京バレエ団の公演、元が1993年とのことで、今から見ると、悪く言えば、「アジア・エキゾチック・ショー」と見えないところもある。まあ、20年近く前の欧米人の日本への意識などこんなものかと思う。
                 
筋は、ごく普通に、平岡公威らしい少年が、日傘の祖母に庇護されて舞台に出てくるところから始まり、海を象徴するらしい女性の群舞の中をただよう。もちろん、褌祭もある。『鹿鳴館』と『金閣寺』が出てきたところは笑ってしまうしかない。「こうするしかないのだろうなあ」とは同情する。黛も音楽もそう優れたものとは思えない。ここで、なぜ黛が右翼化したかの原因の記述を思い出した。黛は、三島とオペラ『喜びの琴』を作る約束をしていたが、多忙で予定どおりにはできず、まじめな黛は、それを自己の引け目に強く感じていて、それが後の黛の右翼化になったと言うのが、藤田敏雄の説で、私は正しいと思っている。作曲家黛敏郎は、元々大変なモダン・ボーイで、戦時中は神奈川県立一中で、当時からピアノを弾いていたので、「軟弱だ!」として、大分前に亡くなられたが通産大臣にもなった小此木彦三郎(この小此木の秘書が菅義偉氏である)応援団長に鉄拳制裁を受けたそうだ。そして、戦後も最初の給費留学生としてフランスに行った西欧派で、ミュージック・コンクレート等の前衛的手法を駆使するなど最先端だったが、1970年代に急速に右翼化した。これは、我々にはかなり驚きだったが、今日読んだ演出家藤田敏雄の本『音楽散歩、ミュージカル界隈』にその理由が書いてあった。それは、1960年代後半に日生劇場で、三島由紀夫の作、浅利慶太の演出、黛敏郎の音楽、小沢征璽の指揮で三島由紀夫の劇『喜びの琴』をオペラとして上演することになった。三島は、予定どおり脚本を書いたが、黛は映画音楽の仕事もあり、大変に多忙で予定どおりに仕上げることができなかった。そのことを黛は三島に対して大変済まないことをしたと思っていた。そこで、三島が自死した後、贖罪の意識があって三島の「憂国記」を積極的に応援したのではないか、とのことだ。それが、次第に彼が右翼的発言、活動をするきっかけになったのでは、と書いているが、確かにそういう気がする。
この作品でも二つだけ感動したところがあった。それは侍が弓を引き、矢を放つと、それが「聖サンゼバスチアン」の裸の惨状となるところ。さらに、最後日傘に庇護された少年が、頻りと跳躍を繰り返すところで、「公威少年はジャンプしようとしてできなかった青年だったな」と思い至った。神奈川県民ホール

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