2月に放送された『全貌・2・26事件』が再放送された。
秦郁彦先生によれば、「2.26事件産業があり、この時期になると新資料が出てくる」とされている。
今回のは、海軍軍令部が記録していた資料である。
事件が起きると海軍はすぐに把握し、戒厳令本部がおかれた軍人会館に人を派遣し、また街頭に民間に化けた海軍軍人を派遣し情報収集していた。
その記録である。
1936年2月に起こった事件は、近代史で最大の事件だった。それは、陸軍の一部部隊が起こしたクーデター事件であるからだ。
さらに、このクーデターは、国家としての日本が内包していた「矛盾」が鋭く表現されていたからである。
その矛盾とは、西欧的な近代な立憲国家と、明治維新以後の復古主義としての天皇制イデオロギーのとの矛盾である。
大日本帝国憲法に定められた日本は、一応立憲君主制だが、その精神は、天皇絶対の復古主義できわめて前近代的なものだった。
後者が集約されたのは、陸軍の皇道派で、昭和の政治の問題は、昭和天皇の周辺にいる君側の問題だとし、これ(「君側の奸」)を排除するためのにクーデターを起こしたのだ。
だが、昭和天皇が志向していたのは、近代的な立憲君主国で、クーデターなど論外だった。
ここで面白いのは、海軍軍令部に小笠原中将が現れて、反乱軍を支持するように言ったとのこと。
小笠原中将の息子は、俳優の小笠原章二郎で、彼はいつも「バカ殿役」で多くの映画、舞台に出ていた。
そのバカ殿役の裏で、父親はクーデタ―にも係わっていたと思うと実に不思議だ。
さらに、小笠原章二郎は、戦後は日活で多数の作品に出ていたが、珍しいのでは今井正監督の『日本のおばあちゃん』にも出ている。
当初、陸軍上層部は、事態に対応することができず、陸軍大臣告示では、決起を容認するような内容になっていた。
彼らも、軍人内閣ができることをどこかで希望していたのだろう。
すでに内閣は、元海軍の岡田啓祐で、政党内閣は終わっていたが、さらに天皇親政の軍人内閣を求めていたのだ。
もちろん、昭和天皇は大反対で、陸軍に鎮圧の「奉直命令」を出すが、部隊は従わず、なんども上層部との交渉が行われる。
そのクライマックスは、反乱の指導者磯部浅一と近衛師団の山下大尉にとの会談で、文部大臣公邸で行われたが、当然にも決裂する。
最後は、「兵に告ぐ、今からでも遅くはない・・・」の放送、アドバルーン等で兵士は原隊に戻り、反乱は鎮圧される。
この事件の背景として、ここでも昭和初期の不況が言われた。
だが、実は日本経済は、1931年の満州事変、翌年の満州国建国の「事変景気」の好景気になっていたので間違いなのだ。
当時、ラジオ、トーキー映画、カフェ、レビュー等が盛んで、所謂エロ・グロ・ナンセンスの時代で、なかったのはテレビとPCくらいだろう。
ただ、それは東京や関西の一部の大都市で、農村は依然として遅れた封建的な社会だった。
ここには大地主と小作人が存在し、小作争議が頻発していた。
戦後、これを改革したのが、GHQの農地改革で、これによって小作人が自作農になり、自民党の支持者になったのである。
2・26事件の結果、陸軍では皇道派が一掃され、統制派も分解し、その中で無思想の能吏東條英樹が登場してくることになる。
秦郁彦先生によれば、「2.26事件産業があり、この時期になると新資料が出てくる」とされている。
今回のは、海軍軍令部が記録していた資料である。
事件が起きると海軍はすぐに把握し、戒厳令本部がおかれた軍人会館に人を派遣し、また街頭に民間に化けた海軍軍人を派遣し情報収集していた。
その記録である。
1936年2月に起こった事件は、近代史で最大の事件だった。それは、陸軍の一部部隊が起こしたクーデター事件であるからだ。
さらに、このクーデターは、国家としての日本が内包していた「矛盾」が鋭く表現されていたからである。
その矛盾とは、西欧的な近代な立憲国家と、明治維新以後の復古主義としての天皇制イデオロギーのとの矛盾である。
大日本帝国憲法に定められた日本は、一応立憲君主制だが、その精神は、天皇絶対の復古主義できわめて前近代的なものだった。
後者が集約されたのは、陸軍の皇道派で、昭和の政治の問題は、昭和天皇の周辺にいる君側の問題だとし、これ(「君側の奸」)を排除するためのにクーデターを起こしたのだ。
だが、昭和天皇が志向していたのは、近代的な立憲君主国で、クーデターなど論外だった。
ここで面白いのは、海軍軍令部に小笠原中将が現れて、反乱軍を支持するように言ったとのこと。
小笠原中将の息子は、俳優の小笠原章二郎で、彼はいつも「バカ殿役」で多くの映画、舞台に出ていた。
そのバカ殿役の裏で、父親はクーデタ―にも係わっていたと思うと実に不思議だ。
さらに、小笠原章二郎は、戦後は日活で多数の作品に出ていたが、珍しいのでは今井正監督の『日本のおばあちゃん』にも出ている。
当初、陸軍上層部は、事態に対応することができず、陸軍大臣告示では、決起を容認するような内容になっていた。
彼らも、軍人内閣ができることをどこかで希望していたのだろう。
すでに内閣は、元海軍の岡田啓祐で、政党内閣は終わっていたが、さらに天皇親政の軍人内閣を求めていたのだ。
もちろん、昭和天皇は大反対で、陸軍に鎮圧の「奉直命令」を出すが、部隊は従わず、なんども上層部との交渉が行われる。
そのクライマックスは、反乱の指導者磯部浅一と近衛師団の山下大尉にとの会談で、文部大臣公邸で行われたが、当然にも決裂する。
最後は、「兵に告ぐ、今からでも遅くはない・・・」の放送、アドバルーン等で兵士は原隊に戻り、反乱は鎮圧される。
この事件の背景として、ここでも昭和初期の不況が言われた。
だが、実は日本経済は、1931年の満州事変、翌年の満州国建国の「事変景気」の好景気になっていたので間違いなのだ。
当時、ラジオ、トーキー映画、カフェ、レビュー等が盛んで、所謂エロ・グロ・ナンセンスの時代で、なかったのはテレビとPCくらいだろう。
ただ、それは東京や関西の一部の大都市で、農村は依然として遅れた封建的な社会だった。
ここには大地主と小作人が存在し、小作争議が頻発していた。
戦後、これを改革したのが、GHQの農地改革で、これによって小作人が自作農になり、自民党の支持者になったのである。
2・26事件の結果、陸軍では皇道派が一掃され、統制派も分解し、その中で無思想の能吏東條英樹が登場してくることになる。