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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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『黒澤明から聞いたこと』 川村蘭太 新潮新書

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黒澤明と知合いだったことを自慢しているだけの本という批評もあるが、これを読むと、晩年の黒澤明と家族の様子はよくわかる。
要は、黒澤の周りには、久雄と和子の子供、さらにその友人などしかいない風景である。
川村は、映画好きの父親に連れられて子供時代から映画を見ていて好きになるが、大学時代には映画会社は新卒の定期採用はなく、CM会社に入る。
だが、両親の近くのアパートに住んだことから、加藤晴之・和子夫妻と知合い懇意になる。
当時は、加東大介の息子、黒澤明の娘夫妻だった。
『暴走機関車』、『トラ、トラ、トラ』以後、周囲に誰も映画人がいなくなった黒澤プロダクションにとって、映画製作以上に収益事業と目されたのが、CM製作で、川村は、黒澤久雄の会社に入る。
久雄の会社は、黒澤エンタープライゼズで、一応別会社であるが、彼と妹の和子、さらに夫人の喜代が黒澤明にとって最高で最大のスタッフだった。
まるで、中小零細企業であるが、それは黒澤明自身が招いた結果だった。
1950年代まで、日本の映画会社では、監督、脚本、さらに各部門のチーフ、あるいはスタークラスの俳優以外は、皆社員で組合員だった。
だから、『七人の侍』や『隠し砦の三悪人』などの撮影期間が延びても、スタッフ、キャストの大部分は毎月給与が出るので、黒澤の「我儘」に皆付き合えたのだ。
だが、1960年代になると、東宝も合理化を進め、スタッフ。キャストはその場、その作品の雇用になった。
こうした中で、1965年に大作『赤ひげ』が作られた。大変に立派な作品だが、製作に1年もかかったのは、異常である。
主人公の三船敏郎は、これのために1年間、自分のプロダクションのテレビ映画にも出られなくなった。こんな状況で、黒澤に付き合う映画人がいるだろうか。
私は、黒澤明のピークは『天国と地獄』で、『赤ひげ』では、もう異常だったと思う。

                        

監督としては、最高でも、経営者としては失格であるというしかない。

この本で出てくるのは、1983年に記録映画『能』を作ろうとした件である。
『影武者』の後、フランスの映画会社等の出資で『乱』の製作が始まる。同時に、横浜の緑区に黒澤スタジオの建設も始まっていた。
ところが、フランス政府の外国への投資の一時的停止政策で、『乱』の製作が止まる。
そこで、集めたスタッフに仕事をしてもらうために、記録映画『能』が企画される。
脚本、監督は元東映の佐伯清で、黒澤は総監修になった。
伊丹万作の唯一の弟子である佐伯は、戦前、戦中はPCLにいたこともあり、「佐伯のあんちゃん」として非常に面倒見のよい人で、黒澤とも親交があったので、選ばれたのだろう。
佐伯は、すぐに脚本を書いてきたが、黒澤はそれを完全に書き直してしまう。
そして、中尊寺でのロケにも黒澤は来て、現場を指揮する。
最後、出資企業へのラッシュ試写の時、黒澤は大声で、撮影の中井朝一を怒鳴ったというのだ。
自分の言ったとおりに撮っていないとのことで。
だが、佐伯も中井も、特に反応を見せなかったとのことだ。
こうして黒澤の周りから映画人はいなくなり、家族だけになったのである。
そうした状況がよくわかる貴重な本であると私は思う。





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