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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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『ねじまき鳥クロニクル』

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この劇を見ての最初の感想は、「随分とすかしている芝居だな」だった。
「すかす」と言うのも死語だろうが、きどっているという意味で、よく植木等が「すかすなこの野郎!」と言っていた。
池袋西口の汚い公園が、いつの間にか、きれいなというか、こじゃれたプラザになっていたのにふさわしい芝居だともいえる。
私は、村上のこの小説は読んでいないので、以下劇からうかがえたことだけ書く。

劇作家田中千禾夫の優れた演劇論に『劇的文体論序説』があり、この中で、1960年代以降流行していたアングラ・小劇場演劇のことを、「無調的演劇」と評していた。
また、1960年代末、早稲田大学では、今は演劇博物館の一部となった九号館が学生に占拠されていて、劇団等がいたのだが、ここからはつかこうへいと村上春樹が生まれているのだ。
つかはともかく、世界的作家の村上春樹が生まれているのだから、九共闘(九号館共闘会議)も意味があったのか。
九共闘の代表は、自由舞台の赤尾君で、今は演劇評論家の衛紀生である。私も劇研の代表として会議に出たこともあるが、村上春樹はどこにいたのだろうか、人形劇研究会だそうだ。



この劇は、まさに無調的であり、俳優の動きは実にぎこちなく、どこか人形劇的である。
もちろん、外国人演出家は、村上の前歴などはご存知ないだろうが、小説のどこからか、その匂いを嗅ぎとったすればすごいと言うべきか。
話は、主人公が飼っていたネコがいなくなり、それの調査をしている内に、今度は妻も行方不明になると言うもの。
最初に思い出したのは、安倍公房の『燃えつきた地図』で、これは勅使河原宏監督で映画化されているが、主人公の探偵はなんと勝新太郎なのだ。
ここでは妻の市原悦子の依頼を受けて夫の調査を始めた勝新の探偵自身が東京のなかで行方不明になっていくという話だった。
安倍公房も、いまや忘れられつつある作家だが、1960年代は世界的にも評価されていて、ノーベル文学賞候補といわれていた。
この劇の世界の無機質な感じは、安倍公房の世界に似ているともいえる。
そして、もう一つ思い出したのは、唐十郎が作り出していた世界である。
それは、大都会の中にうごめく男女が出会ってすれ違うという悲劇で、男と女の本質的なすれ違いに迫るものだった。
ここでは、一応最後猫は見つかり、夫婦も再会する。
だが、そこにできた溝は到底埋まるとは感じられない。
大友英良の音楽が、最後はデキシー風で幸福感を表現していたが、とてもハッピーエンドとは思えなかった。

東京芸術劇場




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