現在では、周知のことだが、サイレント時代から日本映画は、世界的に高いレベルにあった。
その理由は、日本では明治以前から浪花節、講談、落語などの豊かな語り物文化があり、それを基にして娯楽的チャンバラ映画等が、伊藤大輔、マキノ雅弘らの作品になっていた。また、俳句の伝統は、小津安二郎、山中貞雄、伊丹万作などの詩的で知的な作品群に結実していたと思う。
『双子歴記』の後、原将人監督の長編『初国知所天皇』(はつくにしらすめらみこと)と18歳の時に作られた『おかしさに采どられた悲しみのバラード』が上映されて、トークイベントの最初、金子遊氏は、
「原監督はひとことで言えば、映像の詩人だ」と言った。
私に言わせれば、この『初国知所天皇』は、詩的作品の伝統に連なるものだと感じた。
この日上映されたのは、16ミリ版をDVDにしたもので、そこの前半は16ミリだが、途中から8ミリで撮影したもののブローアップ版である。それは、8ミリでコマ落として撮影したものを、16ミリの一コマに焼くというものだそうで、一種スローモーションのようだが、一定ではなく不定形に動いていく。
その結果、原監督の内部に無限に接近してゆく、つまり内面を微分していているような感じがある。この内面を微分する感じは、初期の鈴木忠志の演出作品で早稲田小劇場の役者の演技に似たものでもあった。
当初は、馬に乗った者が、北海道から南を目指す16ミリ作品だったようだが、スタッフの解散で、途中から原監督が一人で8ミリで撮るものになる。つまり騎馬民族説を、神武天皇の東征伝説を逆に辿るというアイディアだったとのことだが。
伊勢、奈良、大和の古跡をたどるところから、西に向かい、一人で荷物を背負ってヒッチハイクの旅に出る。
この日は、原氏のエレクトーンと、後藤和夫氏の元グループ「ポジポジ」のメンバーだった方のギターがついた。
「丹波を過ぎて丹後に入る、こんな旅に意味はあるのか、こんな旅は無意味でないか・・・」の原監督の、不思議なボーカル、歌手のみなみらんぼうのような人間離れした歌声だった。
日本海側を行き、関門海峡を越えて南下し、宮崎と鹿児島の天孫降臨の古跡に行く。
そして鹿児島では、早熟な少女で、自殺した作家の墓に参り、夕方の光で終わる。
途中の休憩をはさんで4時間のラストには、強い感動があった。
特に原監督のエレキトーンとギターの循環コードの演奏は、大島渚の『東京戦争戦後秘話』に類似していたので、終わった後にそのことを原監督と話すと、
「あれは私が武満さんに教えて、それを武満さんが映画音楽化したものだ」とのことだった。
この自殺した少女は、実は鹿児島のNHKの人に騙されてのことだったとのこと。
いずれにしても、原将人の高校生での映画監督デビューは、全国の映画少年、少女に大きな影響と衝撃を与えたのである。
シネマハウス大塚