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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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本当にわかっているのかい

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ネットの中で、さるフリーライターと称する人が、「紅白でアイドルを後ろに侍らせておくこと」について批判的な意見が書かれていた。

よくわかっていないのではないかと思う。

昭和30年代からテレビ、「紅白歌合戦」を見ている者としては、その批判の仕方に少々疑問を感じたので、年寄りが何を言っているのだと思われるだろうが、書くことにする。

主演、主役の後ろにその他大勢の人間がいるのは、紅白歌合戦が代表例ではない、NHKの歌番組では必ず後ろにバック・ダンサーがいて、その中心には金井克子らがいた。

「あの金井克子が踊ってスカートがめくれ上がり、時々パンツが見えるのは、オヤジへのサービス」と揶揄されたこともあったが。

それは、コーラス・グループでも同じで、前川清がいたクール・ファイブなども、実演では楽器をするとしても

「一体やることがあるのか」と思うほど、多数のバック・コーラスの連中がいた。

専門家に言わせると、あの「ワ、ワ、ワ」というコーラスをきちんと合わせるのは結構難しいものなのだそうで、あの無駄に見える人数も必要なそうだが。

パキスタンの「イスラム教のゴスペル」とも言われたカッワーリーのグループ、故ヌスラット・アリ・ハーンのコンサートでは、主唱のヌスラットと掛合相手のおじさんの他、13人くらいの伴奏の声と手拍子のみの連中がいた。

いつだか忘れたが、あるとき、後ろの方の人間は眠っていることすらあった。

そのように「果たしてこんなに人間がいることが必要なのか」と疑問を持つことがこれらのアジアの芸能にはある。

理由は、人口が多くて余っているからというわけではない。

アジアでは、芸能が集団で行われることが普通で、さらにその主役は、その曲、演目に応じて多様な役を演じるという性格があるからだろうと私は思う。

鶴田浩二や美空ひばりは、曲ごとにマドロス、サンドイッチマン、ヤクザ、航空隊、芸者等を歌い、演じた。

                    

 

                          

 

   

それがアジアの芸能の本来の、そして正しい形態で、最近は見に行っていないが、香港や台湾の歌手のコンサートでは、今もその形が守られていて、歌手は何度もお召しかえをし、様々な役柄を華麗に演じる。

歌手や俳優が、基本的に一つの役しか歌い、演じないというのは、西欧の考え方であり、それは当然に個人主義から来ているものである。

最近のニュー・ミュージックで、歌手の個人的な日常生活を背景にした歌しか歌わないようになったのは、つい最近のことである。

歌舞伎では、多くの場面で、並び大名とや聞いたか坊主、お女中衆と称される連中が、主人公の後ろにただ並んで立っていることがあり、オウム返しの台詞しか言わないことがある。

大体は名題下の俳優が演じるもので、縁の下の力持ち的役割に過ぎないが、だからといって人件費削減であれを全部なくしたら、芝居はすきま風の吹く、味気ないものになるだろう。

そのように主役の後ろに一見無意味に見えるバックが存在するのは大いに意味のあることなのである、少なくともアジアの芸能においては。

昨年の紅白歌合戦で、主歌手の後ろにバックダンサーが、アイドルにしろ、一般のダンサーにしろ、きちんといたのは非常に良いことであり、正しいあり方なのであると思われ、大いに評価したいと私は思う。

NHKは、所詮NHKであり、古い形を守ってこそNHKの意味がある。あるとき、紅白も世界中から中継したり、みのもんたを司会にしたりしたが、実に無意味なことであった。

昔のアジア的な芸能の形式を紅白歌合戦は再現すれば良いのであり、その意味では昨年の紅白歌合戦は、良い方だと思った。

日本は、そうした文化の国なのであり、西欧とはおおいに異なるのである。

何しろ、歌会始があり、天皇が和歌の家元である国など、今時あるはずもない文化国家なのであるところが日本の良いところであると私は思う。

 

 

 

 


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