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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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兄・黒澤丙午の影武者だったと自分を思いこんだのだろうか

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黒澤明は、黒澤勇の4男4女の8人兄弟の末っ子として1910年に生まれた。この兄姉の中で、その経歴等が知られているのは、4歳上の兄丙午と5歳上の姉の百代である。

この丙午は、非常に優秀だったらしいが、東京府立1中(日比谷高校)を受けるがなぜか合格せず、成城中学に行く。

今のお坊ちゃん、お嬢さん学校の成城学園ではない、当時成城中は、陸軍士官学校への予備校だった。

良く知られているように黒澤勇氏は、秋田出身で陸軍戸山学校、今でいえば自衛隊体育学校の教官で、黒澤明が生まれたころは、日本体育会の理事を務めていたので、東大井の日本体育会の傘下の学校の日本体操学校の官舎で生まれたのである。

日本体操学校は、今の日本体育大学だが、この学校を創立したのは日高藤吉郎という人物で、陸軍時代の黒澤勇の上司だった。

この日高藤吉郎という人は、名前からして十分に笑えるが、現在で言えば「軍事オタク」で、茨城から出てきて年齢をごまかして16歳で陸軍に入り、西南戦争に行ったという凄い人物なのである。

多分、西南戦争の経験で日高氏は、農民の体が脆弱であることを痛感したに違いない。西南戦争は政府軍の武器の優秀さで西郷軍を破ることはできたが、日々肉体を鍛錬し、食べ物も大きな差のあった農民の政府軍兵士の肉体の強化のための事業を起こすことになる。

彼は、様々な手段を駆使して資金を集め、体育思想の普及と実践のため、日本体育会と日本体操学校を設立し、黒澤勇氏も日高氏に従って日本体育会の理事になったのである。

だから、当時黒澤家はかなり裕福で、兄丙午、姉百代、そして小学校低学年までは黒澤明も、上流の子弟が通学していた森村学園に入っていた。

だが、大正3年に東京上野で開催された「大正博覧会」に日本体育会も出展し、パビリオンを作ってイベントを行うが、博覧会そのもの不人気もあって、日本体育会の出展は赤字で不渡り手形を出したことで、黒澤勇氏は警視庁刑事の取り調べを受ける。

だが、これは非常に不思議な事件で、結局「私的流用はなかった」とのことで、不起訴になる。この時さらに不思議なのは、日本体育会の名誉総裁だった閑院の宮家の執事も警視庁の取り調べを受けていたことである。いくら総裁とはいえ形だけのはずの宮家の執事が警察の捜査を受けるものだろうか。

私には、この事件は宮家の経理的問題の処理を体育会が背負わされたのではないかと考えている。黒澤プロができての最初の作品の『悪い奴ほどよく眠る』は、社会的意識がまったくない黒澤が、汚職事件で上司の罪を着せられ、濡れ衣で死んだ父親の悲劇がドラマの起点だからである。

そして、大正6年に黒澤勇は、日本体育会の理事を首になってしまい、富裕な黒澤家は一転して一文無しになってしまったのである。

さて、成城中に行った黒澤丙午は、もともと文学青年だったが、次第に映画が大好きにになり、雑誌『キネマ旬報』の投稿するほか、映画館のパンフレットを書くようにまでなり、活動弁士を目指すようになる。

成城中に入り、当然にも陸軍士官学校への進学を望む父の勇氏と丙午は、強く対立する。だが、急に貧困になった黒澤家にあって活動弁士の高給は魅力だったろう。

当時、小石川から恵比寿に黒澤家は移転していたが、近所にいた山野一郎の紹介で、黒澤丙午は須田貞明を芸名の活動弁士になり、洋画の若手弁士として人気を得るようになる。

だが、映画はサイレントからトーキーになり、その松竹系の映画館のストライキにあって、黒澤丙午はストの委員長にまでなり、会社と組合との板挟みになったりする。

そして、27歳の時、愛人の子が死んだ時、その愛人と心中してしまう。当時、神楽坂の兄の家に居候していて、特に定職を持たず、デザイン等のフリーター的な状態だった黒澤明は、真剣に仕事を考えざるを得なくなる。

そして、PCLの助監督試験に合格して映画界に入る。この時期まで、黒澤明、そして黒澤家が大変に貧困であったことは山本嘉次郎が書いている。

「助監督試験の時の黒澤の衣服がボロボロでひどかった」というのだ。

黒澤明は、京華中学を出て、東京美術学校(東京芸大)を受けたが合格せず、プロレタリア美術研究所に行く。これも黒澤家の貧窮を示すものだろう。なぜなら、当時すでに私立の美術学校もあったからである。

このように家の貧窮は、黒澤明に世の中への不満と怒りを生んだはずで、彼はプロレタリア美術連盟の一員となり、左翼運動の末端的活動をするまでになる。

彼の映画の根底には金持ちへの反感と不信があるが、それはこの時期の体験から来ているものだと思われる。

徳川夢声は、もともと活弁だったので、須田貞明をよく知っていて、PCLで黒澤明に会った時、「本当によく似ているな」と言ったそうである。ただし「君は陽性で、兄は陰性だった」と付け加えたそうだが。

さて、黒澤明は、PCL,そして東宝で大監督になっていくが、1965年の『赤ひげ』の製作の問題、結局1年間かかり、その間主演の三船敏郎と加山雄三は1年間他の作品に出られなくなるなど天皇の我儘はひどくなっていた。

そして東宝とは切れることになり、黒澤も『七人の侍』や『用心棒』が外国でリメイクされたことから、自分の作品が世界に通用すると過信し、海外進出を目指す。

だが、最後は『暴走機関車』も『トラ・トラ・トラ』も自分自身では完成できないものに終わる。

 こうして、1965年から1980年まで、『どですかでん』や『デルス・ウザーラ』はあったものの、黒澤明は、不遇な15年間を過ごすことになる。

この時、黒澤明は、自分は兄丙午の後を追い掛けて、本物になろうとして来たが、結局兄のようにはなれず(自殺は同じだったが)、そうした本物になりたい「影武者」的な人間の悲哀を感じていたのだろうか。

そうでも考えないと、映画『影武者』の前半の、小泥坊が武田信玄の影武者になる悲哀というような、一体どこがおもしろいのか不思議な主題を選ぶ理由がないからである。

 

 


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