図書館カード更新の必要があったので、横浜市中央図書館に行き、ついでなので、去年死んだ根津甚八が出ている、『影武者』を見る。
4年前に『黒澤明の十字架』を書くときに、何度も見ているが、久しぶりに見ると非常につまらない。
言うまでもなく、勝新太郎への当て書きの脚本なので、「ここは勝新ならば面白いが、仲代では面白くないなあ」と思うシーンばかり。
要は、愛嬌の差であり、これはいかんともしがたい。
小物の泥棒の武田信玄の影武者が、前半は本物になるように努力する筋なので、少しも面白くないのだ。
そして後半の徳川家康や織田信長との合戦になると流石に本物の馬が疾走するので、多少面白くなる。
だが、影武者は愛馬から落ちて、上杉に切られたはずの背中の傷がないことが側室らに見つかり、偽物と武田勢を追われてしまい、その姿には悲しみしかない。
そして、武田騎馬隊は、織田・徳川連合軍の鉄砲隊に全滅する。そこに自らの死を覚悟して影武者は戦場にわざわざ出て行き、銃殺されてしまい、その体は河を流れる。
一体、この作品の意味は何で、なぜ黒澤は、影武者のことを主題にしたのだろうか。
黒澤明は、誰の影武者だったのだろうか。
答えは至極簡単である。27歳で愛人と心中してしまった黒澤明の兄で、優秀な若手の活動弁士だった須田貞明こと黒澤丙午しかいないだろうと思えた。