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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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呑川の氾濫

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『シン・ゴジラ』で、ゴジラが最初に上陸するのは羽田の呑川の河口である。

この呑川は、洗足池から流れ出る小河川だが、私の実家の池上の真ん中を横切って流れていた。

1950年代当時は、護岸は木製で守られていたが、他は完全な自然状態で、夏には水草が生えているのが見えたものだ。

だが、この流域の池上2丁目は、川よりも低い「天井川」状態になっていて、多分ポンプ場も整備されていなかったのだろう、台風が来るとすぐに床下浸水になってしまう地域だった。

だから、秋の台風の時期になると、大雨で危険とのことで、小学校も午前中くらいで、学校閉鎖になり、生徒は家に帰るとなったものである。

そして、1958年9月27日は、凄かった。朝から大雨で、学校はすぐに閉鎖になり、われわれは喜んで下校した。

後に、狩野川台風とよばれる大型の台風だった。    

                                                   

                       

雨は、午後になってもまったくおさまらない。家では、兄や姉たちも戻ってきたが、父は当時大田区の馬込小学校の校長だったので、戻って来なかった。

夕方、ついに呑川が氾濫したらしく、川の水が流れてきて、家の床下を洗い出した。

                    

夜、その圧力で、雨戸が流れてしまうい、母が急いで飛んで行き、大学生の兄も続いた。

家の外も、濁流が腰の高さくらいまでに流れていた。家の入り口には7,8枚の雨戸があり、毎日の夕方それを閉めるのは、子供たちの仕事だった。

雨戸がなくなるとガラス戸で、これは脆弱なので、いよいよ心細くなる。

以前から、母はよく言っていた。「台風で雨戸がなくなり、空いたところに大風が来て、家が持ち上げられるて、次は抜けるので屋根が落ちてペシャンコになる」と。

だが、明治時代に建てられた木造の家屋には瓦と大量の土が入ってたので、雨戸がなくなり、風が吹き込んでも屋根の重さで家は、全く動かなかった。昔の家は、さすがによく出来ていたわけだ。

そして、母と兄が、雨戸を持って戻って来た。家の前にも住宅や商店があり、流れはそこでぶつかって左に曲がって流れていたので、そう遠くには行かなかったのだ。

やっとのことで雨戸を座敷に上げて一安心したが、水は少しも減らない。

雨はもう上がっていたのだが、それまでの降水で水位は少しも下がらないのだった。

そして、床ギリギリになった時、母が言った、

「全部二階に上げよう!」

火事場のなんとやらで、1階の座敷にあった箪笥、畳を母と子供たち5人で全部二階の部屋に、狭い梯子を使って上げてしまった。

二階には、普段は兄が寝起きしている屋根裏部屋の天井の低い部屋があったので、そこに運び上げて、みな寝た。

結局、床の少し上まで水は来たようなので、物を上げたのは良かった。

翌日が大変だった。箪笥が当然だが、とても重くて降ろせないのである。仕方なく、箪笥の中を抜き、一つづつ、別々にしてやっと下したのである。

本当に、「火事場の何とか力」だと思った。

その後、呑川は河川改修されて、この時のような洪水は起きていないようだ。

古代から、アジア各地では、大王の第一の仕事は、河川の管理だったそうだから、1960年代も治水は最優先の行政だったのである。

 

 


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