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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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中央卸売市場はなぜできたのか

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東京の築地市場の豊洲への移転問題で話題の中央卸売市場だが、これはいつどのような理由でできたのだろうか。

もちろん、一心多助が活躍する魚河岸のように、江戸時代にも市場はあった。

だが、現在の大都市にある近代的な中央卸売市場ができた原因は、なんと大正7年の米騒動なのである。

米騒動は、魚津から始まり、北陸から関西、さらに全国に波及し、最後は軍隊を出動させ戒厳令を敷いて鎮圧させる大騒動になった。

この年は、1918年のロシア革命が起きソ連共産政権ができた年でもあり、日本の支配層は重大事件として対応した。

その結果、作られた対策は3つで、米の流通の管理、いわゆる「食糧管理制度」だが、これはなかなか進まず、最終的にできたのは戦争直前になる。

だが、これはその後ずっと維持されていて、私が横浜市に入った1970年代には、区役所総務課の事務に「米穀通帳に関すること」という文言あがった。勿論、有名無実化していたが。

 

もう一つが、中央卸売市場の設置であり、これは各大都市に大正末期にでき、今日に至っている。

最近では、市場を通さず、生産者と販売社が直接に売買をする「場外流通」の比率が、スーパーなど増加しており、市場の役割の低下が言われている。

ただ、計画的に生産できる野菜等とは異なり、魚介類はその時々で漁獲高が上下するので、魚介類は市場流通に依存するだろうとみられている。

 

さて、もう一つの大きな対策は、「同和事業」の開始だった。

これは、特に関西の米騒動に参加した民衆の内の多くに、いわゆる被差別部落の人間がいたとのことで、政府は本格的に同和対策に努めるようになったのである。

                                      

 

この米騒動への部落民の参加については、『橋のない川』でも描かれていて、今井正の映画『橋のない川』では、伊藤雄之助を先頭に、地井武男らの若者が大阪の米商人の店の打ちこわしに向かっている。

この今井正の『橋のない川』は、部落解放同盟と日本共産党との間で紛争のあった不幸な映画だが、今見ると結構面白い映画で、TSUTAYAにもある。


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