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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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『流星ひとつ』 沢木耕太郎(新潮社)

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先日亡くなった藤圭子への、沢木が1979年秋に行われたインタビューの初めての公開である。

            

ちようど藤圭子が引退を表明し、12月の最後のコンサートが行われた間のことである。

これを初めて読んで驚くのは、藤圭子について言われていた様々な伝説がすべて本当のことだったということだ。

曰く極度の貧困で生活保護を受けていた、母親は盲目で、両親は浪花節語りだったこと、中学卒業後上京して浅草や錦糸町で流しをして親子3人が生きていたこと。

それらは、歌手としての話題つくりの一つだと思ってきたが、全部本当のことであった。

1960年代中ごろ、藤圭子がテレビに出て来た時感じたのは、一種異様なものが出て来たということだった。

60年安保以降、上昇を続ける日本の社会に、一時代前の貧困や悲惨を基にして歌をうたうことの時代的な異様さであったが、それは藤圭子の場合、特に異常なものではなく彼女の生活そのものだったのだ。

だが、藤圭子についていつも言われる、「浪曲師の両親の下で」演歌的なフィーリングを見に付けたというのは完全な間違いである。

なぜなら、彼女の歌の世界や背負っている背景は、きわめて演歌的な貧困と悲劇の世界だが、彼女の唱法には演歌的なものはまったくない。むしろきわめて純情歌謡的である。

その理由は、彼女を北海道で偶然に見出し、上京を促し、最初に歌唱のレッスンをしたのが、八州英章(やしまひでお)であることが大きかったと思う。

八州は、『あざみの歌』や『山のけむり』などの正調派の純情歌謡曲の作曲家で、いわゆる演歌の人ではないからである。

また、この時期に藤圭子は、ジャズ喫茶に出ていたグループ・サウンズの連中とも付き合いがあり、そこからも洋楽的素養を吸収していたはずだ。

そして、無名の作曲家石坂まさおと出会い、『新宿の女』から『女のブルース』へのヒットになって行く。

ヒットの理由は、演歌的な世界を歌っていながら、唱法が少しも演歌的ではなく、それを冷笑しているような突き放した歌い方のクールさに新しさがあったからだと私は思う。

藤圭子は、非常にクールな歌手だったと思う。

                             

勿論、それは抜群の歌唱力があるので、無理に力まずにも歌えるということでもあったのだが、本質的に自己を冷静に見られるクールな歌手だった。

それは、テレビ番組等では、いつもシラケているように見えた。

さらに、引退の理由も明らかにされている。

それは、1970年代に何度目かの咽喉の調子が悪くなったときに、咽喉のポリープを切除したことが原因なのだそうだ。

そのため、他人にはわからないが、彼女の声はきれいになってしまい、それは藤圭子にとっては、「もう自分の声ではない」という落胆感になったからだという。

ただ、母親だけはわかっていて、ある時藤圭子がリハーサルで歌っていたとき、「この人は良く似ているけど誰なの?」と言ったそうである。

彼女にとっては、少し喉に声が引っ掛かり、苦しいように見えて発声するところに彼女自身の歌うことの醍醐味があったようだが、それがなくなって歌う気がしなくなったのだという。

その辺のことは、天才だけがわかることで、われわれ凡人にはなかなか理解しがたい本人の不満感である。

死の理由は勿論出てこないが、精神的な疾患を長い間かかえていた後のものであることは、間違いない。

1960、70年代を飾った歌手のご冥福をあらためてお祈りしたい。


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