1990年に、翌年横浜のパシフィコ横浜で横浜市の主催で開催する「国連ピースメッセンジャー都市会議」への参加を呼びかけるため、私は当時横浜市のハンブルク駐在だった新井成一さんとローマで合流し、ローマ以下の各都市を訪問した。
ローマの後、飛行機でピサまで飛び、そこからフィレンツェに行った。
さらにミュンヘンをトランジットしてオーストリアのウィーンに行き、スペインのマドリッド、ポルトガルのリスボンまで行った。
日本というユーラシア大陸の果ての島国から、大陸の西端まで行ったのである。
本当は、アフリカのセネガルまで行くつもりだったのだが、新井さんが「そんなに行ったら疲れて死んじゃうよ」というので、彼とはリスボンで別れ、彼はドイツに戻り、私はイギリスのロンドンに行って、そこから成田に帰って来たのである。
中では、リスボンで日本の大使だった、三島由紀夫(平岡公威)の弟・平岡千之氏に会うなどのこともあった。
そうして分かったのは、この国連ピースメッセンジャー都市会議というのは、欧州やアメリカのユダヤ系の人たちによる、反ナチズムの運動だということだった。
彼らは、市長などの市役所の重要ポストを得ていたが、大体は社民党か労働党の党員で、ユダヤ人らしかった。
当時、すでに戦後40年以上も過ぎているにも関わらず、欧州やアメリカのユダヤ人は、ナチスによるホロコーストを忘れていないのだなと大変に感心したものである。
何事も忘れやすい日本人とは大きな違いである。