横浜シネマリンで、稲垣浩監督、阪東妻三郎主演の1943年の映画『無法松の一生』を見る。その後に、シナリオライターの山田太一と荒井晴彦の対談。
「日本シナリオ選集」の発行記念シリーズ、「いい映画は良いシナリオからしか生まれない」だが、この『無法松の一生』は、その逆の例である。
なぜなら、あまりにも有名なように、これは戦時中と戦後の2回検閲を受け、10分以上もカットされているのに、これのほうが戦後の1958年に稲垣浩が完全版として作った三船敏郎と高峰秀子主演の映画よりも感動的であるからである。
完璧なシナリオで作られたものよりも、一部とはいえ、検閲によりカットされた作品の方が感動的であるとは実に皮肉である。
それは何よりも、阪妻の演技のすばらしさに依っている。どの演技、台詞、アクションのすべてに愛嬌があり、ユーモアがあるからである。
三船敏郎の後も、三国連太郎と勝新太郎が演じていて、私は勝新の主演、有馬稲子の相手役、三隅研二監督のも見ているが、やはり阪妻の最初の作品には到底及ばないと思う。
そのカットされたところは、車夫ごときが、帝国軍人の未亡人に惚れるとはけしからんとカットされた。
映画の後半に松五郎が、吉岡大尉(永田靖)の未亡人(園井恵子)の家に夜中来て、「自分の心は汚れている」と告白するところ、
また居酒屋に貼ってあったポスターの女性が、松五郎の視線で未亡人の姿にオーバーラップで変わるところなどである。
つまり、極めて下層の下賤な男が、上層階級で社会の中枢たる軍人の未亡人に惚れることは、帝国は許せないことだったわけだ。
そして、最後、松五郎は、死んだとき、吉岡家から貰ったお礼等は全部保管していて、別に息子の名義で貯金が500円もあったことが明かされる。
貧乏人にも美しい心があるのだという主張である。これは原作の小説を書いた岩下俊作が、プロレタリア小説の作家だったからで、これは階級的な主張である。
このラストシーンなどは、ホリエモンや村上ナントカに見せたいものだと思った。
さて、このラストのクライマックスの松五郎が叩く小倉祇園太鼓だが、これは稲垣浩たちが工夫して考えたもので、本来の祇園太鼓ではなかったのである。
1979年に、私は指定市の議長会議が北九州市で開催されたとき、大久保英太郎議長に随行して小倉に行った。
北九州市は、小倉一の料亭で宴会をやってくれ、余興に小倉祇園太鼓を保存会の方によって見せてくれた。
だが、それは延々と「カエル撃ち」が続くもので、「勇駒」にも「乱れ撃ち」にもならずに終わってしまったのだ。
地元の方に聞くと、祇園太鼓は、もともとは祇園、つまり花柳界で始められたものなので、本来は極めて優雅なものであり、無法松のように大音量で叩くものではないそうなのだ。
でも、今では、あの無法松的打法が標準になっているそうだ。
よく現実を模写したのがリアリズムと言われるが、これは現実がフィクションを模倣しているのである。
まことに稀有な例というしかないだろう。
山田太一のトークショーには、この映画とは関係ない面白い事もあったが、それは別に書く。