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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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「『昭和天皇実録』を読む」 原武史(岩波新書)

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2014年に刊行された『昭和天皇実録』を若手政治学者の原武史が読み解いた本で、非常に興味深い内容である。

「果たして昭和天皇は、本気で太平洋戦争を始めたのか」以前から疑問に思っていたが、この本を読んでも、本気で米英に戦争を仕掛けたことが分かった。

1941年10月13日、天皇は木戸幸一に次のように話したという。言うまでもなく木戸は内大臣で、一番の側近である。

 

  対英米戦を決意の場合、ドイツの単独講和を封じ、日米戦に協力せしめるよう外交交渉の必要があること、さらに戦争終結の手段を最初から十分に考究し置く必要があり、そのためにはローマ法王庁との使臣の交換など、親善関係を樹立する必要がある旨を述べられる。

 

原も、このローマ法王云々には木戸もびっくりしただろうと書いているが、昭和天皇は、皇太子時代の訪欧の際、法王ベネディクト十五世に会っており、その時の好印象から、カソリックには深い政治的意味を感じていたようだ。

1941年10月13日は、第三次近衛内閣の末期で、日米交渉が進まず、このままでは対米英戦に行かざるを得ないことが政府の首脳は決断し始めえていた時である。そして、木戸の進言によって昭和天皇は、東條秀樹を首相に任命することになる。

 

そして、この本で非常に驚くのは、1945年の敗戦後、昭和天皇が、カソリックに非常に興味を持ち、改宗の気すらあった事実があったことだ。

簡単に言えば、その理由は戦時中、天皇をはじめ日本人すべてが、戦争の勝利と神風を一心不乱に神に祈った、神武天皇以来の皇祖皇祖の神々にである。

だが、神風は吹かず帝国陸海軍は、連合軍に敗れてしまった。

だから、天皇家の神である日本神道は用ナシの宗教になったわけで、戦争にも勝てる宗教としてキリスト教を選択しようとしたのだろう。

この辺のマキャベリズムというか、冷酷さはすごい。逆言えば、ただ一人の「主権者」はそれだけ孤独だったということになる。

最高権力者にとって、頼るべきは現実に存在するものではなくて神になってしまうのだから。

 

また、当時の1950年代中頃は、ソ連以下の共産勢力が現実的に極めて強く、反共の本山としてのローマン・カソリックの援けを借りようという意識もあったのだろう。それは、反北朝鮮から、韓国でキリスト教が極めて強力になったこととも同じである。

そして戦後、昭和天皇と皇后が接近したカソリックの一つに、藤沢の聖園(みその)テレジアが主催の聖園(聖心愛子会)があるのには、大変に驚いた。

藤沢に私立の女子高として聖園女学院があり、以前図書館にいた時、事務の女性が娘の私立中学受験を準備していて、その進学問題に夢中だった。

その候補校の一つとして藤沢の聖園女学院を上げていたからだ。

名を聞いたとき、まったく知らなかったのだ。

だが、そこは1920年設立と日本での活動は歴史が浅いのだが、秋田、そして藤沢で布教を始め、どういう経緯からかは不明だが、戦後すぐに昭和天皇皇后にまで接触するようになったキリスト教団体だったのである。

だが、この昭和天皇の改宗問題は、1952年の日本の独立の回復と日米安保体制の確立で不要になり、現在に至ることとなる。

                               

                                       

その他、この本で初めて知ったのは、例の御文庫とは、別に書庫でも何でもなく巨大な防空壕だったことである。

無辜の民が、木と紙でできた家で空襲の惨禍に遭っているとき、天皇は頑丈な防空壕で安全に暮らしているとは言えなかったのだろう、日本得意の言い換え、カモフラージュである。

 

 


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