小津安二郎が、1963年12月に、ちょうど60歳で亡くなられたのは有名で、それを賛美するような言動もあるが、私は全くそうは思わない。
60歳とはやはり早い。その原因は言うまでもなく彼の日頃の生活習慣である。
戦後、彼は映画の撮影中も、朝からお酒、昼は黒ビールに生卵を落としたもの、夜は大人数を集めた宴会。
そして、脚本の執筆中は、野田高梧と毎日1本づつ日本酒を飲み、それが100本を越えるころに脚本が書けて、ツマミはほとんど食べなかったというのだから凄い。
これで、生活習慣病にならなかったら、その方が不思議だが、戦後の小津安二郎は、それだけ内部に鬱屈したものを抱えていたということだろう。
ある時、誰かが「なんで朝からお酒を飲んで撮影しているのですか」と聞いた。
彼は「こんな映画、酒でも飲まなくては撮影できないよ」と言ったそうだ。
戦後の社会の急変は、彼にとっては非常に苦いものだったようだ。
それは、大仏次郎のようにアメリカ文化化への一方的な批判ではなく、自分も大きく加担した戦前のモガ、モボ、エロ、グロ、ナンセンスのモダニズムの戦後の復活に対する自己批判からだったと私は思う。
それが、一番はっきりと出ているのは、『東京暮色』である。