バーナード・ショー原作の、15世紀のフランスで突如現れて祖国の危機を救い英雄となるが、囚われの身となり火あぶりの刑に処せられたジャンヌ・ダルクの生涯を描くもの。
主演は、笹本玲奈で、全体として言えば優等生的な演技が少々面白みに欠けるが、生き生きとして演じており素晴らしいジャンヌだと思う。
ドンレミーの田舎の娘のダルクが、神のお告げを聞き、突如領主ロベール(中島しゅう)のところに現れ、フランスの皇太子シャルル(浅野博雅)のもとに紹介せよと言う。
彼も、ジャンヌの言葉、振る舞いの不思議な力に押されて、皇太子に紹介する。
このシャルルがどうしようもない弱虫で、その他周囲の者も、非常に変な連中で、偉い人というもの想像を見事に裏切る。
皇太子たちは、デュノアという臣下(伊礼彼方)に偽の皇太子を演じさせてジャンヌを試すが、彼女はそのうした嘘をすぐに見破り、廷臣たちもジャンヌを信じ、軍隊の指揮を任せ、イギリス軍に勝利してしまう。
この当時の欧州の戦争の仕方がよくわからないが、大砲云々の台詞があるが、それはないだろう。砲術が出てくるのは、ずっと後のナポレオン時代である。
この時期のフランスの政治情勢というのもよくわからないが、それ以上に私たちにとって意味不明になってしまうのが、ジャンヌが捕らわれて宗教裁判所で行われた異端審問の場面となるところだろう。
幕間に知人に会ったが、やはり眠ってしまったそうで、私もそうだが、観客の8割は眠ってしまっただろうと思う。
ジャンヌが聖人のお告げを聞いたとき、「それはラテン語だったのか、フランス語か英語か」などと質問するのだから笑ってしまう。
当時、聖人はラテン語でしか話さなかったからだが、田舎の無教養なジャンヌにラテン語が理解できたはずもない。
2007年に蜷川幸雄の演出、松たか子主演で、ジャン・アヌイの『ひばり』が上演され、ここでも異端審問の場面はお手上げだったが、ここでも同じだった。
このショーの芝居が珍しいのは、最後にエピローグがあり、死んだジャンヌが現れ、25年後の生者、死者たちと会話することで、ここでジャンヌと周囲の連中の位置が明らかにされることだ。
ショーらしい、分かりやすさであり、また彼のジャンヌへの考えをよく表していると思う。
これを見ると、ショーは結構通俗的であることが分かり、ジャン・アヌイの『ひばり』が詩的で、美しい劇であることも大変よく理解できた。
笹本以外はすべて男だが、イギリスの伯爵の今井朋彦、ランスの司教石田圭介、軍隊長の新井康弘、侍従長の小林勝也、大司教の村井国夫など、皆素晴らしい演技だった。
そして、この異端審問の場面は、ソ連のスターリン主義のことだと思ったが、この劇は1923年作で、まだスターリンがトロツキー等を追放し、大虐殺をする前である。
また、ショーは、1920年代にソ連を旅行し、その国づくりを讃えているそうなので、この異端審問は、もっと普遍的な個人の思想、良心の問題である。
だが、スターリンの大虐殺、中国のプロレタリア文化大革命の際の劉少奇などへの迫害、またエチオピアのメンギスツ政権時代の知識人の迫害など、
なぜマルクス・レーニン主義は、異端審問的活動をするのだろうか。
それは、一つにはレーニン的社会主義が、本質的にキリスト教の伝統の中にあることを意味し、また民衆の中には「偉い人」への処罰願望があるからだろうと思う。
イギリスでも18世紀には公開処刑があり、大群衆が見に来る見世物だったし、日本の現在のテレビのワイドショーの人気記事は、多くは「公開処刑」的である。
すでに皆忘れてしまったが、俳優押尾学に下された一連の裁判報道などは、明らかに公開処刑に値するものだったと思う
演出は鵜山仁。
世田谷パブリックシアター